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【雑記】 東京オリンピックのエンブレムと、リエージュ劇場のロゴが酷似しているというので

東京オリンピックのエンブレムと、リエージュ劇場のロゴが酷似しているというので遊んでみた。

誰かを擁護しようとか、批難しようというような意図は全くない。

たんなる興味から、それぞれの構成原理や各部の比例関係を調べてみただけ。

方法

それぞれのロゴ画像をCAD(VectorWorks※)上に取り込み、構成の核となる部分を計測した。この場合の計測値は、小さな画像の端部を画面上で目視で拾うことから、当然誤差を含んでいる。そこで、それを単純な整数比に近似して比較してみた。

※VectorWorksでなくても同様のことはできますが、画像を使う処理はVectorWorksが楽です。

これらのロゴは、国旗のように量産されるものなので、構成原理や比例関係が単純明快である必要がある。というのは、構成原理や比例関係が複雑だったら、誤った比例で量産されてしまう恐れがあるからで、そのために単純な構成と単純な整数比を用いたはずだという推測に基づいている。

また、デザインするのではなく、デザインされた結果を分析してみるだけなので、分析結果がデザイナーの意図と関係あるかどうかは全く分からない。

リエージュ劇場のロゴマーク

(製作者のOlivier Debie さんの Le studio Debie のHPより)

logo_cr1

image

logo_cr2

東京オリンピックのエンブレム

(公式HPの画像より)

logo_cr3

image

logo_cr4

分析(?)結果

  • アイディアは同様。
  • 図と地の関係の使い方も同様。
  • 構成原理も同様だが、リエージュ劇場の方が少しだけ複雑。
  • 比例関係の、2:1:2:1:21:1:1 は、ものをデザインする観点から言えば似ても似つかない。

要するに職業デザイナーでなくても、デザインする者であれば、この程度のアイディアや構成原理は容易に思いつける範囲である一方で、両者は比例関係が決定的に異なるということだ。

また、上記は「似ているように見える部分」だけを比較した結果だが、下記のように、構成図形の基準点の置き方も異なっている。

  • リエージュ劇場は、構成原理となったすべての図形の中心点が一致。
  • 東京オリンピックは、右上の赤丸が、他の図形と基準点が異なる。

つまり、複雑さを増してデザインに膨らみを持たせようとするときの考え方(一捻り入れるときのやり方、と言った方が分かりやすいかも)が、下記のように異なる。

  • リエージュ劇場は、複雑さを増すに当たって、比例を複雑にした。
  • 東京オリンピックは、複雑さを増すに当たって、基準点を増やした。

さらにこじつけっぽい説明をしてみれば、東京オリンピックの方は、赤丸のおかげで、リエージュ劇場より「T」に近いものになっている、、、、だから模倣したのではない、とか、こっちの方が優れたデザインである、とか言いたいわけではない。

いずれにしても、見た目が似ているからというだけで直ちに盗用であると短絡してはいけない。

また、プロセスにおいてパクリがあったかどうかは別として、たんに2つのデザインを並べ比べた場合、上記のような相違があるので、この程度であれば別物として捉えないと、デザインの仕事が成り立たなくなるのではないかと思う。

(2015/7/30 執筆、2015/8/17 不明確であった表現を修正)

【追記】2015/8/1 (2015/8/17 不明確であった表現を修正)

ニュースによればリエージュ劇場のロゴのデザイナーが提訴したらしいが、もしかしたらそのことによって将来的に自分の首を絞めることになるかもしれないし、デザイナーという職能自体を崩壊させるかもしれない。

良くも悪くも、一般に自己顕示欲が強すぎる人が多い職業であるので、東京オリンピックのエンブレムを自分の宣伝材料に使ったという見方をしておけばよいと私は感じた。自己宣伝も重要な世界であるから。一方、バルセロナの方はリエージュ劇場のロゴのデザイナーに対して「アホなことを言いなさるな」というメッセージを送ったのだと思いたい。

【追記】2015/8/16 (2015/8/17 不明確だった表現を修正)

サントリーの景品デザインに、盗用があったそうだ。インターネットに出回っている比較画像を見れば、これはどう見てもパクリだろうというレベルだった。佐野氏本人も盗用を認めたそうだ(実作業に関わったスタッフがやったことで、本人は知らなかったとのことである)。組織や実作業のあり方からして、佐野氏本人が知らなかったのはむしろ当然であると言って良いと思うが、誰が社会的な責任を取るかということになれば、実際に関与していなかったとしても組織の代表者である佐野氏である。

佐野氏は、オリンピックのエンブレムについては盗用を否定しているそうだが、その真偽はともかく、オリンピックという国際的な行事のエンブレムのデザイナーとしては品格に欠けると思わざるをえなくなった。

ところで、サントリーの景品デザインの一件については、STAP細胞の一件と同じく、インターネットの力が良い方向に作用した例だと思う。

オリンピックのエンブレムに話を戻すと、どんなデザインが選ばれていたとしても100%オリジナルの形であることはあり得なかっただろう。円をひとつ書いただけでも、日の丸の模倣だと言われたらそこまで。だから最終的な形だけでなく、その形に至るプロセスや思考も合わせてオリジナリティというものをとらえなけれならない、、、、これは少なくとも建築分野ではずっと行われてきた評価態度である。ネガティブな見方だが、近現代の建築は、そうでもしないと評価のしようがない状態になっているといえる。デザイン分野も同様なのだろう。

建築設計もそうだが、たぶんデザインでも、初期的なアイディアから最終案に至るまでの途中途中のスケッチやデータが残っているだろう(デザインに関わる作業は、あるところまで進んでいたとしても、過去のある時点に立ち返って、他の方向に進んだりすることも多いので、完了するまでは描いたもの、作成したデータは残しておくのが一般的だと思う)。そういうものが呈示されたら、パクリであるかどうかの判定ができるだろう。

しかし、使う側にとっては、いちいちデザイナーの思考を考えたりする暇はないし、そんな必要もないので、目の前にあるものだけを評価すればよい。作る側と使う側の永久に埋まらない溝がここにある。

「似ているからダメ!」、「盗用だからダメ!」、「あのデザイナーは気に食わないからダメ!」、「あのデザインは嫌いだからダメ!」と言うのではなく、「そもそもデザインとしてダメ!」、というような評価を下せる人が増えていけば、デザイン分野はどんどん良くなっていくのだと思う。アートはつねにアーティストと一体だが、デザインはデザイナーから離れて独り歩きするものだから、人を評価せずに結果だけを評価すればよいのだ。

【追記】2015/8/17

当初私は、これで酷似と言われたらデザインの仕事が成り立たなくなる恐れがあるから、類似性の程度を確認しようと思って、コンセプトだのプロセスだのデザイナーの人となりだの、そういうものは関係ない、結果として見えているものだけの比較を行ってみた。

佐野氏の別件での盗用が明らかになった今でも、私は、両者はデザインとしては異なるものだと思っている。

他のデザインから着想を得たのか、他のデザインの盗用なのか、その判別は難しい。論文であれば、他者の著作を引用する場合、ある一定の許容値があるし、論文全容を誰でも確認できるが、デザインの場合は許容値の設定自体が困難である(不可能であろう)。そして現在、社会問題になっていることの焦点は、莫大なお金がからむデザインができあがるプロセスにおいて盗用があったかどうかということで、結果として存在しているデザインの類似性がどうこうという話ではない。

とにかく、デザインされたもの自体には罪がないので、デザイナーとしての倫理観や盗用の有無の追求と、デザイン自体の良し悪しの判定は、分けて考えてほしいと願う。

【追記】2015/9/1 (2015/9/2 不明確だった表現を修正)

今日のニュースによれば、件のロゴの使用を中止になる方向に進むそうだ。たぶん、妥当な判断だろう。

表面的事象だけを追って盗作だのパクリだの騒ぎ立てた人々の勝ち誇ったようなコメントがさっそく並んでいる。相当に恥ずかしい人々だと思う。そして、今回、多くの日本人の目が「デザイン」というものに向かったことは良かったが、日本の「デザイン教育の不備」も露呈する結果となってしまったのが悲しい。

また、新国立競技場のコンペ当選案に対する槇文彦氏のような主張をしたデザイナーがいなかったのは、デザイナーたちが弱腰であったのではなく、すべてのコンテクストを切り離して、それ単体で存在できるデザインというものの捉え方の難しさによるのだろう。

ただし、今回の一連の流れを見ると、リエージュ劇場のロゴと似ているという最初の指摘自体が、将来的なデザインのあり方を脅かすものであったので(つまりデザイナーが自分で自分の首を絞めたような指摘であったので)、私は全く納得できずにいる。プロセスを明確にできなかった佐野氏もよろしくない。

オリンピックのエンブレムだけについて言えば、デザインが再考されることは歓迎だが、あらゆるデザインに対する素人たちの興味が、今後「パクリであるかどうか」だけに向くのではないかと心配だ。

小中学校のお絵かきの授業では、デザインを教えてくれない。美術史的な内容はあっても、時代背景や作家の伝記的な側面が教えられるだけで、結果としてできあがった絵画そのものを評価する方法論を教えない(ような気がする)。もしかしたらデザイン的にヘンなものを作っても先生が「個性的だ」と褒めるような状況ではないだろうか。たしかに正解をひとつに絞り込めるような分野ではないが、明らかな間違いはある。ダメなものはダメであり、なぜダメであるかをきちんと説明しなければならない。デザインは科学である。直感的な何かが出発点となることが多いが、結果には論理が必要である。

「パクリだ」と騒ぎ立てた人たちの中には、あのデザインが直感的に気に入らなかった人が多かったのではないかと思う。しかし、あのエンブレムをデザインそのものとして批判するための理論を持たないので、「結果として似ているから、パクリに違いない。パクリは倫理的に許せない」という短絡とすり替えによって、アンチの態度を示したのであればまだ救われる気がする。しかし、もしそうでなければ、次にどんなデザインが出てきても「元ネタ」を必死で探し回ってはつぶしにかかるだろう。そういう愚かな人が、一人でも少ないことを祈る。

新国立競技場、エンブレム、どちらも当初案を見直さなければならない状態に陥ったことは、設計やデザインという分野からは、全くありがたくないできごとだった。

【追記】 2015/9/10
出発点、プロセス、コンセプトなどが異なっていても、結果として似てしまうことがある。多少でもデザインに関わる仕事をしている者としては、オリンピックのエンブレムのような大プロジェクトにおいて、出発点、プロセス、コンセプトなど、どの部分においても盗用をするはずはないと思う。しかし結果として似ているものがすでに存在してしまったことが、(デザイナーではなく)エンブレムにとっては不幸だったと思わざるを得ない。

あくまでも、結果として目に見える姿だけから言えば、今回の類似度をパクリというなら、例えば、すべてのスマートフォンはパクリ合戦であると言っても差し支えないと思うが、どうしてパクリだと糾弾する人たちがスマートフォンのデザイナーたちを糾弾しないのか不思議である。もし岡本太郎、アンディ・ウォーホール、マルセル・デュシャン、あるいは、マッキントッシュ、ミケランジェロが今回のあのエンブレムをデザインしていたのだったとしたら、糾弾する人たちはどういう反応を示したのだろう、、、多少興味がある。

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カテゴリー:雑記

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