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【過去のテキスト】 EPCOT NET No.38 【第6回(最終回)】 『想像力は行為する肉体の延長にある』 2003年8月
EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.38に掲載。
今回が最終回。話があちこちに行ってしまったが、コンピュータやCADは建築における脱近代の有効な道具であるという認識が底にある。ところが、コンピュータやCADが、本来持っているポテンシャルを活かせるまでの環境も意識も整っておらず、だから、我々はまだまだ近代街道を突っ走っている。
コラムの中で近代の弊害を指摘し、これからはアクティビティから発想して建築や都市をつくって行こうと書いた。
近代がこれまでやってきたことを否定してはいけないし、そもそも、近代が間違っていたわけでもない。ちょっとした視点の変更をした方が良さそうな時期に差しかかっている、ということだ。想像力さえあれば、そちらへ行ける。しかし道具の使い方を誤ったら道に迷う。ダイナマイトを引き合いに出すまでもなく道具には誤った使い方があり、誤った使い方が社会で公認されることすらある。もっとも危惧するのはこの点である。
道具の使い方を間違えないためには教育が重要であること、しかるに教育現場は遅れていることについても書いた。
それではコンピュータやCAD自体はどうであろうか。
実は私はコンピュータには呆れている。なぜか。理由はたくさんある。たとえば平気で人を待たせる。コンピュータそれ自体は進歩した。マシンスペックも、ソフトの機能も私が使い始めた頃に思い描いていた可能性をはるかに超えている。しかし、コンピュータを含め、人間が作り出した道具はすべて人間の僕であるからして決して人を待たせてはいけない。待つ行為を否定しているのではない。待つ行為がネガティブであったりイナクティブであったり、非生産的であったりしてはいけないと思うのだ。
1) レコードの聴きたい曲の直前の溝にそぉっと針を下ろす行為
2) CDプレーヤーのリモコンで聴きたい曲の番号を押す行為
得られる結果はどちらも「聴きたい曲を聴く」であり、結果本位で見れば1)も2)も同じだ。理念の達成をはかることは、ある一意の結果を求める態度でもありだから近代化は2)の様態を是とし、目指したと思う。
1)は聴きたい曲を目指して、回るレコードの溝めがけて、レコード盤も針も傷つけないように、全身全霊を傾けて針を下ろす。そのとき肉体とレコードとプレーヤーと、その先にある曲は一体になる。たった数秒間だが、曲の始まりに向けて気分は高揚していく。とてもアクティブでポジティブでそしてアグレッシブでさえある時間だ。
2)は曲番号をリモコンに打ち込むだけで、何も自分とはつながらず、予定調和的に聴きたい曲が始まるだけ。デジタル機器の操作(入力)から結果(出力)が得られるまでの微少な時間、筋肉も活動しなければ、脳もたぶんボケぇっとしている。コンマ数行から数秒単位の長さにすぎないが、実に無駄な時間だ。高揚感がないのはもとより、あまりに短すぎて窓の外に目をやるほどの余裕も、何か新しいアイディアがわき出すほどの余裕もない。完全な死に時間。このように人を無駄に待たせるという一点を見ただけでも、コンピュータという道具は全く進歩していないと言える。
そんな意味で、コンピュータはトコトン速くならなければならないがもうひとつの問題として、マウスとキーボードとディスプレイを基本とするマンマシンインタフェースが現状でよいのか、という疑問がある。
これらの装置からは、肉体の悦びを得られない。T定規で長い線をすぅっと引いたときの悦びとは全く別の世界だ。 CADはどうか。当初は、Computer Aided DrawingとしてのCADとComputer Aided DesignとしてのCADはない交ぜであったが、だんだんとそれぞれの相違が明確になってきているように思える。どっちつかずであったものも、マシンパフォーマンスの向上によってDesignを強く意識したものに変化しつつあるようで、歓迎している。
このような状況下で忘れてはならないのはコンピュータは計算が得意なだけであって計算結果を表示するだけという制限があることだ。ここに落とし穴がある。
ハードとソフトの高速化や多機能化によって、できることを何でも実装する状態になってきている。その弊害も多く、顕著な例としては、過度のビジュアライゼーションがある。必要な情報を的確に伝えるために必要な範囲での視覚化は重要だ。しかし「できるから」という理由で、何でもかんでも視覚化しようとしている方向に進んでいる。
こういうことを言うと「価値観が多様化しているのであらゆる人があらゆる情報を受けられるようにしているのだ」と反論されるだろう。
個人個人の価値観は多様化しても、モノゴトの価値は多様化しない。「できるからやる」ではなく「できるけれどやらない」という姿勢があってこそ円滑なコミュニケーション(=意思疎通、情報伝達)が図られるのではないだろうか。
情報化は「価値観の多様化」という耳障りの良い標語の下に「何でもあり」を是とし、デザインにも混乱をもたらし、近代の理念のひとつ万人のための公平さは「何でもあり」の実現という堕落した格好で達成されてしまった。そして、価値観の多様化と引き替えに、人は想像力と批判精神を失ってしまった。
ここで強引にCADやソフトに話を戻そう。「何でもあり」が失わせてしまった想像力と批判精神を取り戻せるような、つまり、操作しながら考える余地があり待ち時間を死に時間としないようなCADやソフト、そういう工夫–機能ではなく「工夫」–が求められると考えている。
理念というのは想像力の賜物だと思う。
すぐれた理念を生み出した近代は想像力に溢れていたはずだ。アフォーダンスもアクティビティから発想するデザインも想像力があって初めて成り立つ。哲学的な意味では、その想像力は行為する肉体の延長にある。かつてウィリアム・モリスは、作る者にとっても使う者にとっても喜びとなるようなものづくりを目指した。その動きが続かなかった理由は、道具という視点が欠けていたからではないかと思う。
生きる人間として重要なのは、結果ではなくプロセスであり、良い結果はプロセスを大切することでもたらされる—-モリスの言葉の一側面はこのようにも言い換えられるだろう。ものをつくるプロセスには必ず道具が必要であり、私たちはその道具をうまく使うことによってモリスの失敗を避けられるだろう。
※今回の写真: 半田山植物園にて、子どもたちが撮影(制作というべきか?)
【過去のテキスト】 EPCOT NET No.37 【第5回】 『ハードディスクの肥やし』 2003年7月
EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.37に掲載。
ときおり、考えていること、頭の中でもやもやしていることなどを書き散らしては、ハードディスクの肥やしにしている。今回はその中からいくつか。
<スピード>
「ル・コルビュジエの時代と今とはスピードが違う。」
1997年に開催された日本フィンランド都市セミナーの展覧会の準備中、コーディネータの建築家・岡部憲明さんと、ル・コルビュジエについて、雑談したときの岡部さんの言葉である。
そのしばらく前、私は学生達とル・コルビュジエ作品のおっかけ旅行をした。そのとき初めて、ル・コルビュジエの建築を実体験したのだったが、<人が過ごす時空間>としての素晴らしさに感嘆した。しかし、言葉にできない苛立ちのようなものを感じていた。岡部さんの言葉で、その苛立ちは消えた。建築史を専門としていたのに、ル・コルビュジエをピンポイントで見ていたことに気づき、恥じ入った。
当たり前のことだが、ル・コルビュジエの時代と現代は異なる時代であるから、新しくつくられる建築が同じであってよいはずがない。いくらル・コルビュジエの建築が優れていても、今、それを再現することには無理がある。無理がある、ではなく、無意味というべきだろう。
無意味である理由のひとつが「スピード」、ル・コルビュジエの時代と現代とで、大きく様相を変えた<生活感覚>であろう。スピードが与えてくれる恩恵は計り知れない。その変化にあえて抗う必要はないだろう。しかし、感覚は追従できても、肉体そのものは、スピードの増大に対応できていない。生活感覚と身体感覚のズレが生じている。
ハイスピード化に抗うかのように「スローライフ」という言葉をよく目にする。一瞬、復古主義か?!と疑うが、メディアで目にするものの多くは、上記のような変化やズレを認識した上でスローライフを提唱しているようで、共感を覚える。
建築デザインについて言えば、器だけではなく、ライフスタイルをデザインすることが、ズレ解消の第一歩だろう。
<歪み>
私が大学1年の時、図法の授業のティーチングアシスタントに、黒いボールペンでカレンダーの裏に、ものすごいパースを描く人がいた。その人=栗田さんは、絵の苦手な私には憧れの存在であった。
あるとき学食で食事中の栗田さんに恐る恐るパースの書き方を尋ねたら、あの優しい笑顔から、不可解な言葉が聞こえた。
「理論通りにやったら歪んで見えるので、それを修正する必要がある。」
なぜ理論通りにやったら歪むのか全く分からないまま、そして言葉の意味を深く考えもしないまま、絵の苦手な私は受験数学の弊害を背負ったまま、「パースなんて座標変換の計算にすぎない!」、「たんなる計算だから、計算が得意なコンピュータにやらせればよい!」と8ビットパソコンをローンで買ってパース作成のプログラム(今で言えば3次元CADか?)を作る方向に進んでしまった。
昨年、不思議な縁で20数年ぶりに栗田さんにお会いし、その話をしたところ、昔と変わらない優しい笑顔で謎解きをしてくださった。人間が見ているのは網膜という球面への投影、理論通りのパースは平面への投 影であるからで、幾何学的には人間が見ている世界の方が歪んでいるのである。(実際はもっと深遠な内容だが、私が解題できるような単純なことではない。ここでは数学的な理論と、現実の認知には相違があることだけを強調したい。)
こういう歪みも計算でかなり再現できるとは思うが、人間にとっての自然な歪みの表現には至っていないようだ。
古代ギリシア建築の、基壇のむくり、隅柱の内転び、エンタシスなど、幾何学的にまっすぐにするのではなく、目で見たときにまっすぐ見えるようにするため、あえて形を歪ませる技法は、幾何学的な理論ではなく、観察主体である人間にとっての自然さを選んだ結果だろう。その点、アフォーダンスは人間という観察者の上に成り立つ、素晴らしい考え方だ。観察者主体の造形理論ができてほしいし、つくりたいと思う。
<イタコ>
そのころ栗田さんとやりとりしたメールから。まずは私が釈迦に説法;
architectの語源は、古代ギリシア語の、arxi+tekton=技術者の長です。そして、architectureはarchitectからの派生語ですから、人の存在(=architect)があって初めてモノ(=architecture)が存在できると捉えてもよいでしょう。つまりモノは人の存在の帰結である、ということです。
これは、一般的な道具で考えれば当たり前のことです。要らない道具は作りません。ある機能的要求があって初めてモノ(道具)をつくります。(大量消費型の社会においては要らないものもたくさんつくられ、多くの人がいらないものを手にするようにはなっていますが、モノをつくる基本は「必要だから作る」で、これは普遍でしょう。問題は機能が必要だから作るのか、お金が必要だから作るのか、いずれであるかです。)
自らの設計作を「作品」と呼ぶこと。これが近代が建築家に許した最悪のことではないでしょうか。
栗田さんは、こう諭してくれた。
ものには「意志」があると感じます。そして、まだ生まれていないものにも「意志」を感じます。
例えば、デザインをしているときに「ロゴ」だったり、紙芝居だったり、オブジェだったり、建築だったりしますが、それらは生まれる前に何らかの意志を持ってそこら辺に漂っているような気がします。
その漂っている意志に忠実に「このように生まれたい」という意志をできるだけくみ取って実現してあげる手助けをする。意志を受け取って忠実に図面にする。そのようなイタコのようなことをするのがデザイナーとかアーティストといわれる人の仕事なんではないかと思っています。
※今回の写真: ル・コルビュジエの初期の設計(上)、中秋の満月(中)、オオオニバスの花(下)。中と下は、子どもたちが撮影。
【過去のテキスト】 EPCOT NET No.35 【第4回】 『CADは救世主となりうるか?』 2003年5月
EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.35に掲載。
(まずは私がまだ大学で教えていたときに、電子計算センターの機関誌に『CADは建築の将来を拓く–ただし、教育が正しければ!』と題して書いた文章をお読みください。) ←この部分はブログの以前の記事とダブります。
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CADを教えなければならないという思いと焦りはおそらくほとんどの建築系学科に共通しているだろう。
しかしCAD教育に関する議論は、技術的側面と理論的側面がないまぜのまま進み、いつしか技術的側面だけが強調され、否定的な結論に至ることが多いようだ。CADが教育プログラムにうまく入っていかない根底にはCADへの大きな誤解があるのではないかと、CADの中に救世主を見る私は、やや被害妄想的に感じている。
CADにかぎらず建築教育における演習系科目の大半は、技術と理論の同時習得を目的としている。
たとえば製図演習では、図面上の一本一本の線は何かしらの意味を担っていることを知るのが理論的な理解であり、その線を意味内容に応じて描き分けられるようになることが技術の習得である。やみくもにきれいな線を描けるだけとか、逆に線の意味が分かっていても描き分けられないのでは、製図を学んだとは言えない。実務に携わる人から「図面が描けない人はCADを使えない」という言葉をしばしば聞く。このセンテンスは技術と理論の不可分の関係を示す好例であり、「図面が描けない→CADを使えない」という技術上の因果関係で捉えるべきではない。
「図面が描けないこと=図面の理論的側面を知らないこと」であり、だからこそ、道具を鉛筆からCADに代えてみても手も足も出ないのである。
教育の現場では、ここにおいて「手書きが先かCADが先か」と、ニワトリと卵のような議論が起きる場合がある。
私はどちらでもかまわないと思う。卒業後に手で図面を描くチャンスが稀になった現在では、CADから始めても全く問題ないだろう-ただし、教育が正しければ!
またそれ以 前の誤解として、よく「CADか手書きか」という二者択一論的な立脚点を見受けることがある。CADの登場は、設計プロセスで使う道具がひとつ増えたことに過ぎない。そして、スープを飲むのにナイフを使う人はいないように、あるいはスパゲッティを箸で食べてもいいように、目的と、達成されるべき結末が分かっていれば、TPOに応じた道具を間違いなく選べるのだ-ただし、教育が正しければ!
あるいはCADを使うことは楽をすることだという先入主もあるようだが、いかなる道具を使おうと産みの苦しみから逃れることはできない。しかし道具が内在する<速度>の差によって、苦しみから逃れるために必要な時間や次の苦しみの局面へと移行する時間は大きく変わるだろう-ただし、教育が正しければ!
さらにCADやコンピュータをバーチャルな世界と位置づけ、そこへの傾倒を危惧する声もあるが、バーチャルとリアルはどう見ても異なっており、それらをゴチャマゼにすることなどありえない-ただし、教育が正しければ!
偶然見たTV番組で「コンピュータ=バーチャルリアリティのように言われているが、人工物に囲まれたまち自体がすでにバーチャルリアリティであり脳化されたものである」というようなことを養老孟司氏が述べられていた。然り。ビデオゲーム世代が起こす社会問題も、社会や都市環境がバーチャルになっていることに起因するのであって、ちっぽけな機械に責任転嫁するのは可哀相だ。そして、設計図面とは3次元物体の2次元平面への写像という高度に抽象化された記号体系であり、極度にバーチャルなのである。だから読み間違いや解釈の相違といったコミュニケーションの障害がおきやすい。一方3次元CADは3次元物体や空間そのものを見せるから、図面よりも抽象度は低く(リアリティが高いのではない)、障害はおきにくい-ただし、教育が正しければ!
もしバーチャルな世界に<在る>ことに危険があるとすれば、それはその人の「想像力の欠如」に基づく。バーチャルとリアルを結びつける想像力や、違いを認知するための想像力である。CAD教育だけでこれを補うのは無理だが、少なくともCADがアイディアを可視化する圧倒的な速さは、想像力育成に有効に働くだろう。また、CADは想像力を媒介として円滑なコミュニケーションを促進してくれるものでもある-ただし、教育が正しければ!
私は、正しい!?建築教育とは何かと自問しながら、CADの授業を担当している。もちろん正しさとは時代や文化によって揺らぐものであるから、普遍的な正しさを求めようということではない。生活のあらゆる局面において「近代的な正しさ」を変容させるべき時期が来ていて、教育機関はその震源にならなければならないとの確固たる認識があるだけだ。私はまだ明快な方法論を手中にはしていないが、授業内容や成果についてはホームページなどや紀要への投稿をご覧いただきたい。
*****
これを書いてから5年が過ぎ、CADもコンピュータも技術的には飛躍的な進歩を遂げたが、状況はほとんど変わっていないようだ。
プロセスを評価するにあたって、目的と結果から判断するか、使われた道具や手段から判断するか、CADにかかわらずコンピュータは、その点で多くの人の目を曇らせる。これも変化が進まない理由だろう。
たいへん優れた人たちが、コンピュータの前で突如として幼稚化するシーンに居合わせたことが何度もある。上記を書いたころ、『CADが拓く建築デザインの未来』と題した公開講座を企画・開催していた。大上段に構えたタイトルだが、ことさらCADを強調し、その優位性を唱えなければならない時代でもあった。次の小文もこのころに書いたものだ。
*****
産業革命を思い出してみよう。科学技術が、社会を、文化を、生活を変えたではないか。いま僕たちの身の回りの科学技術で、未来を変えられるものがあるはずだ。認知科学者ドナルド・ノーマンがコンピュータのことを<人を賢くする道具>と言っている。そうコンピュータは未来を変えられるのだ。
しかし建築においてコンピュータは何かを変えてきたろうか。経済主義的な意味での省力化、効率化は進んだかもしれないが、それは産業革命時と同じく手作業を機械作業に置き換えたことにすぎない。CADがこのままでは、CADの使い方がこのままでは、産業革命時と同じく、機械作業の弊害しか現れず、未来は暗いものになってしまうかもしれない。
近代が僕たち建築に携わる者に遺してくれたものは何だろう。それは空間でしかない。様式の呪縛から逃れて、科学技術と新しい社会や生活を謳歌することによって生まれたのが、空間という考え方。空間をつくるためには空間を考えて判断しなければならない。3次元CADは空間を見せ、考えさえてくれる道具だから、近代の遺産を正しく受け継ごうとするとき、僕たちが使う道具は3次元CADしかありえない。
建築家は図面を語ってはいけない。空間を語らなければならない。
それはプロとプロの間でもプロと素人の間でも同じことだ。図面描き道具は捨てて、空間づくり道具を手にしなければならない。そして、空間を喋ることが必要なのだ。
私は、近代主義の理念がもたらした害のひとつに、時間感覚の喪失があると考えているが、その状態を脱する方便としても時間を扱える道具が必要である。
先に答えを言えば、その道具こそCADなのであり、救世主となりうる力をもっていると思う……「思う」と弱気にならざるを得ないのは、CADが救世主となりうるかどうかはCADが新しい価値観を生み出せるかどうかで決まるからだ。
新しい価値観は、やがて文化へと醸成されていく。
つい先日、最新の住宅CADのデモを見た。技術は格段の進歩を遂げていることはよく分かった。反面、開発の方向性を見失っているのではないかという危惧を感じた。新しく搭載する機能が必要である根拠が示せていない気がした。そしてユーザは次々と投入される新機能を前に、CADの枠内で右往左往するのが精一杯のようでもある。発想も仕事もCADの中に閉ざすこと(CADで描けないから創らない、CADが描いてくれるから考えない、そんな状態)ほど怖いことはない。
新しい価値観を生み出すためには、CADも進歩しなければならないし、ユーザも変化しなければならない。だから、冒頭に掲載した小文のような懸念–ただし教育が正しければ!–がついて回るのである。教育が正しくなければCADは救世主にはなれないことだけは、自明である。
※今回の画像 『SketchUp習作』 : SketchUp バージョン3のころに作ったもの。
【過去のテキスト】 EPCOT NET No.34 【第3回】 『アフォーダンスのこと』 2003年4月
EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.34に掲載。
メディアでは華やかな建築のハイエンドの世界が見られるが、現実として建築は行き詰まっている。打開のためには、方法論、デザイン・プロセスを意図的に転換していく姿勢が必要ではないかと思う。そのキーワードがアクティビティであったり、アフォーダンスであったりするわけだが、前回はアクティビティというキーワードからアフォーダンスに行き着いた。ここで、ちょっとアフォーダンスの説明をしておこう。
アフォーダンスとは、視覚心理科学者J.J.ギブソンが提唱した理論で、佐伯胖編『アクティブ・マインド』(東京大学出版会)を典拠に簡単に説明すると;
“ギブソンが問うたこと”は、”人や動物が動き回ることを通して、世界がどういうふうになっているかがわかり、自分がどこをどう歩いているかがわかり、どこへ行くのかがわかり、いろいろなものがどういうことに役立つかがわかり、「針に糸をどう通すとか、自動車をどう運転するか、など何かあることをするその方法をどのように知るか」という問題”である。
アフォーダンスとは、生体の活動を誘発し方向づける性質であり、人が何かを知覚することとは、生体がその活動の流れのなかで外界から自らのアフォーダンスを直接引き出すことであると捉える。アフォーダンスという考え方において重要なのは、
・知識は頭の中に想定しない。
・知識は環境自体の中に存在している。
の2点である。
たとえば、何か道具を使う場合、アフォーダンスを使わない説明ではこうなる。
ある人がある道具を見たとき、その人はその道具が何であるか、
あるいは何に使えるか知っているから、その道具を使う。
知識を頭の中に想定せず、知識が環境自体の中に存在すると捉えるアフォーダンスで説明するとこうなる。
ある人は、あることを行おうという要求をもっている。
あるモノが、その人が要求していることを行えるという情報を発している。
その人の目に、そのモノが、その要求をかなえるモノとして目に入る
(その人がそのモノが発する情報を発見する)。その人はそのモノを使って要求をかなえる。
たとえば、いまここに一本の鉛筆があるとする。
Aさんは、何かを書きたいと思っている。
Bさんは、背中の手が届かない場所がかゆい。
AさんもBさんも、あたりを見回して、この鉛筆に目を留めた。
Aさんは、その鉛筆を手に取り、文字を書いた。
Bさんは、その鉛筆を手に取り、背中を掻いた。
おそらく「鉛筆とは文字を書くためのモノである」ことは二人とも知っている。これは頭の中にある知識である。ところがBさんは「環境自体の中に存在する知識」を発見したからこそ、頭の中の知識とは違う使い方をして「背中を掻いた」のだ。Bさんが発見したのは「鉛筆」という機能ではなく「細長く適当な長さの棒」が発するアフォーダンスである。頭の中の知識にがんじがらめにされていたら鉛筆で背中を掻こうとは思いつかないはずだし、通常は「鉛筆とは背中を掻くためのモノだ」とは思っていないだろう。つまり、Bさんが、鉛筆で背中を掻いたのは、鉛筆が「背中を掻けるよ」というアフォーダンスを発していて、それをBさんが発見したと考える。これは一種の発想の転換で、デザイナーにとってとても重要な視点である。
何かをデザインするときは、かならず機能上の要求があり、要求された機能に対して形態を与えるというプロセスをとることは、自明であろう。「<なんにでも使えるモノ=あらゆる機能をもつモノ>をデザインせよ!」と要求されることはなく、たとえばコップとか住宅とか飛行機とか、絞り込まれた機能が要求され、その要求を満たすために形態を作り出す。デザインとは機能に形態を与える行為である。ところがこれは、ユーザによるアフォーダンス発見のプロセスとは根本的に異なるプロセスである。ユーザとデザイナーでは、出発点とゴールが下記のように異なると考えればよいだろう。
出発点 | ゴール | ユーザの使用 | モノ・形態 | アフォーダンスや機能の発見を通したモノや形態 | デザイナー | 機能 | ひとつの形態/モノを決定 |
つまり、デザイナーがある機能を満たすものとして生み出した形態に対して、ユーザは全く違う機能を発見する可能性がある。デザイナーは、ひとつのアフォーダンスをもつものとしてつくったのかもしれないが、それはさまざまなアフォーダンスを持ちうるわけで、そのことに十分注意して、デザインプロセスにおいて正しい判断しておかなければならない。
前回、機能についての、Mitchellの記述を示した。ある入力があり、それがある関数(=function)を通ることにより、何らかの出力がある。すべては、y=f(x)で記述できる。そしてアフォーダンスの視点からは、モノがあれば必ず機能があることになる。
要するに、デザインする立場からは、形態は機能に従い、あたかも機能と形態は1対1に対応するように思えるかもしれないし、そういうデザインの進め方は確かに重要であるが、ユーザから見れば、形態と機能は1対1に対応するものではなく、その形態が発するアフォーダンスから何か必要な機能を見つけ出して使っているだけである。
モノを介して起きる事故の多くも、デザイナーの意図とユーザが発見するアフォーダンスがずれていたことに起因する場合が多いのではないだろうか。六本木ヒルズでの悲しく辛い事件も、アフォーダンスの観点から見れば、過ったデザインになっていたと言えるのではないか。ドアの機械的スペックからの安全判断、柵を設ければ安全性が増すという常套句的判断、確かに、それぞれが期待した機能は果たしていたのかも知れない。
しかし、亡くなった少年は、エントランス廻りの環境に、それらの機能ではない機能を見いだしたから(アフォーダンスを見いだしたから)、ドアに駆け込んでしまったのではないか。頻発する遊具の事故も同様だ。メーカーから出てくるコメントは、機械的なスペック、デザインする側からの機能だけから、安全であると主張する。デザインされたモノをユーザがどう見るか、どう使うかという視点はない。穴があったら指を突っ込むのが子供である。子供はとても多くのアフォーダンスを世界から発見する力を持っている。
さて、前回のコラムについて、友人のB氏からこんなコメントをいただいた。
ピーマンな私には分らないことがあります。
なぜ、創造するために理論が必要なのか?
創造できない人の為に理論が必要なのか?
想像したものを現実世界に存在させる(これが創造?)ために
関数としての理論が必要なのかなぁ?
やっぱりピーマンな私にはヨーわからんです。
数学科出身B氏はドライな合理主義者、ピーマンというのは大謙遜である。答えになっていないと叱られることは覚悟の上で、関数(=function)として理論を「記述」することが必要なのではない。機能(function)を入力があれば出力があると柔軟に捉える姿勢が重要だと指摘したかったのである。この柔軟さがまさにアフォーダンス理論の醍醐味だと思う。
もちろん、関数で記述できることもたくさんあるだろう。
たとえば、アフォーダンスではたとえば次のような面白い実験結果がある。
・スリットを通り抜けるときの肩の回転角度は、その人の肩幅に比例する。
・柵など水平の障害物があるとき、人は、自分の股下寸法の85%の高さで
またげるかまたげないかを判断している。
人間は、驚くほど自分の体のサイズを知っていて、モノとの関係を捉え、行為するということであるが、これらは関数として記述でき、デザイン検討に使えるだろう。
「創造できない人」というのはおそらく一人も存在しないと思うが、反面、これだけ情報が増え、あらゆる分野が専門化してきた今、レオナルド・ダ・ビンチのように<何でもできる人>はもはや出現できない。一人の知恵などたかが知れている。そこで、関数化できることについてはマニュアルをつくっておいて、それに従ってデザインすれば、住空間の偏差値平均はあがるだろう。
デザイナー個人のオリジナリティを発現させることより、平均値をあげること、ボトムアップすることが、都市や建築の惨状を乗り越えるために必要だ。これは一種のユーザ教育でもある。ユーザに建築や都市への理解を深めてもらうことと、住空間の質を上げることはイコールだ。
アフォーダンスを考えてデザインすることは、デザインしたモノがどのような使われ方をするかを想定したデザイン、ユーザのアクティビティ(行為)から発するデザインである。だから必ず人間が判断の指標となる。お金の気持ちではなく、人の気持ちになってデザインできる。
……言うは易く行うは難し。
しかし時代的幸運というべきか、救世主=CADが登場した。CADという道具は何をもたらしてくれるか? これを次回のテーマにしようと思う。
※今回の写真 : 『金沢21世紀美術館』
【過去のテキストへのコメント】 EPCOT NET No.33 【第2回】 『脱・近代とアクティビティ』 2003年3月
これを書いた2003年の時点では、アクティビティという言葉を聞く機会はまだ少なかったが、さすがに6年も経つと、アクティビティという言葉もすっかり普及してしまった。
2年ほど前からだと思うが、建て売り住宅のチラシなどに見られるプレゼンに、家具が入るようになってきている。それ自体は歓迎すべきことだが、みんなが、アクティビティを考えはじめたのだ! と言うことではないので、愕然とする。
間取りだけだと、ガラ~ンとしていて寂しいので、家具も描いてみました!
という感じのものがほとんど。家具を描きいれるということは、アクティビティを検討し、計画する、という意味合いであるべきだが、たとえば、このソファと TV の位置関係では首がこって長時間の視聴には堪えられないだろうとか、まぁ、言い出せばきりがないほど、アクティビティが考慮されていない。
この広さがあれば、テレビと応接家具を置けますよ、子供部屋にはベッドと学習机と棚を置けますよ、、、、というような、広さのイメージの確認にすぎないと言ってもよいだろう。
こういうプレゼンがはびこる理由は何だろう? 教育か? 想像力か?
【過去のテキスト】 EPCOT NET No.33 【第2回】 『脱・近代とアクティビティ』 2003年3月
EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.33に掲載。
前回、アクティビティというキーワードを持ち出した。今回は、もうちょっと深くアクティビティについて突っ込んでいこうと思う。理念の解釈と実行は困難だが、理念がつくった形態の模倣と展開はたやすい。”Form follows function.”という美しすぎるフレーズは、ユーザ本位ではない建物本位の建築を生み出してきたのではないか、と私は疑っているが、すでにできあがったものに云々してみてもつまらない。
思考レベルを記述する表現形式は前回記したようにダイヤグラム、バブルプランなどがあるが、行動レベルを記述するアクティビティの表現形式はなさそうである。いずれにしても、アクティビティから出発することは、現在求められているユーザ本位のデザインには不可欠の設計姿勢だと考えている。
サービス消費、あるいはプロセス消費の社会へ移行している現在、建築においてユーザ本位のデザインが求められていることは、サービスやプロセスを消費する状態への移行を顕著に示すものといえ、アクティビティを考えること=ユーザのニーズを追求すること、であるから、これからは、建築をつくる上での不可欠な発想であることは明らかだ。
「アクティビティ」。これを私は脱・近代の重要なキーワードだと考えている。
1980年代、ポストモダンという言葉がさかんに聞かれた。直訳すれば「近代の後」であるが、その頃近代は本当に終わっていたのだろうか。思潮あるいは理論的には、ヴェンチューリら、優れた建築論者、建築理論家によって1960年代から思考としての脱・近代は図られてきたようにも見えなくもないが脳化した状態はまさに近代であり、脱・近代のためには、肉体から出発する必要があるはずだ。
W.J.ミッチェルが『LogicofArchitecture』(1990年)の中で、建築形態あるいは平面構成を全く形態主義的に分析して見せた。分析に使用されたのは、述語論理、コンピュータ言語で言えばprologである。prologはAI言語(AI=ArtificialIntelligence=人工知能)と呼ばれる言語のひとつでありAI言語というキーワードは、一時期よく聞かれたが、その後あまり聞かれなくなっている。消え去ったか、あるいは、話題にも上らないほど定着したのかそれはどちらでもよい。いずれにしても、コンピュータが人間の心を解く学問を科学へと近づけたことは明白だろう。そして、コンピュータ発展の黎明期にはやがてはコンピュータが人間の心をもつことが自明のこととされていたような気がする。そういえば今年は鉄腕アトムの誕生年らしい。
建築においても、論理によって建築がくみ上げられることが考えられ、AI言語を使った平面形の発生などの研究も行われていたと記憶している。しかし、おそらくそれは成功していないだろう。
というのは、前回、バブルプラニングをネタに、分析手法と創造手法は異なるべきであると記したが、論理のもとにつくることは分析の発展であって創造ではありえない。
UFOの存在を議論するおもしろおかしいTV番組がある。私はUFOが存在しようとしまいとどうでもよいし、バラエティ番組に腹を立ててみてもしょうがないのだがUFO論者が、UFO否定論者の想像力を否定することだけは許容できない。UFO論者には、ピラミッドなど人類の輝かしい軌跡を、飛来した宇宙人のなせる技と考えている人もいるようだが、こういうとらえ方こそ、人類の持つすばらしい創造力を否定したものではなかろうか。そして、その存在に対して結論の出せない宇宙人を介在によって現在の人間が在ると説くことは、想像力の貧窮を露呈しているように思え、とても滑稽である。
それはさておき、ミッチェルに話を戻そう。
ある入力があり、それがある関数(=function)を通ることにより、何らかの出力がある。すべては、y=f(x)で記述できる。ミッチェルの方法を使えばたとえば、
ご飯=炊飯器(米、水)
という具合に書ける。考えてみれば、すべてのことがらが、この方程式で書けそうである。もちろん、fがいなかる関数か具体的に記述できないことがある。記述できないことの方が多いだろう。たとえば
恋=偶然(男、女、空間、時間)
では、何だか分かったような分からないような….それはどうでもよい。入力と出力と、関数(function)で世界が成り立っていること、functionは「機能」とも訳されること、これが最も重要だ。
というのは、”Form follows function.”(=形態は機能に従う)の”function”であるから。Mitchellは、近代の中で、意味や解釈が狭められてきたfunctionを、上記のようにy=f(x)の形に書くことによって、function、すなわち機能という言葉の持つ自由さを再認識させようとしたのではないか、と、不真面目な建築史研究者であった私は想う。
冒頭で、もうちょっと深くアクティビティについて突っ込んでいこうと思うと書いたが、ちょっと方向がずれてきた。しかし、次に引き合いに出すべきは<アフォーダンス>であることも見えてきた。
私は、アフォーダンスは、分析のための理論ではなく、創造のための理論であると考えている。というのは、アフォーダンスは思考から発するものではなく肉体(=存在)から発するものだからである。これからは、レゾンデートル(存在理由)でなく、エートル(存在)だけを考えればよいのだ。「理由」なんかなくてよい。もう哲学しなくてよい、とは言い切れないが、とにかくデザインするときにはどういう入力に対して、どんな出力があるかが重要であり、関数自体は何でもよいのだ。だからこそ、人生は豊かで楽しいのだ。
次回はアフォーダンスについても、ちょっと触れたいと思う。
※今回の写真 『きょうりゅう』 : 庭のクスノキの枝で制作。 上はプテラノドンのつもり(ただしくは恐竜ではなく翼竜)、下はパキケファロサウルス。
【過去のテキストへのコメント】 EPCOT NET No,32 【 第1回 】 『なぜバブルプラニングは難しいか?』(A氏への手紙) 2003年2月
建築計画という学問、私は好きです。受験生時代は、医学部に入って精神科医になりたいと思って、けっこう最後まで天秤に載せていたくらいで、人が何をどう考えるかということに対する興味は今でも強いですね。建築計画という学問は、根本的にはそういうことを扱う分野のだと思っています。大学には入って驚いたのは、建築心理学、というような名称の科目も、研究室もなかったことで、あったら、絶対にそっちの方向に進んでいたでしょう。建築史に進んだのは、歴史を通して、人が何を考えて、どう作るかということを考えられると思ったから。
それはさておき、不勉強な私は、建築計画は理論として成立していて、それに則って行けば、サクサクと建築空間ができていくもの、というようなイメージを抱いていました。設計課題に取り組むときも、建築計画の理論をいちおう学んでみたのですが、どうもうまく行かない。バブルってやつも、泡をぶくぶくと描いてはみたけれど、それが、どうしても建築空間に結びついてくれない。当時はまだ、理論が適用できる世界だと思っていたのですが、理論が使えないのは、自分に問題があると思っていました。
それを解決してくれたのが、このテキストに書いたような、分析手法とデザイン手法の分離という単純な観点です。この観点にようやく行き着いたときは、なんて頭悪いんだろう、と思いました。
形態づくりというのは、ある程度のマナーというか礼儀作法というようなものはあっても、個人の思考、思い、主義主張、好き嫌いなどが基本にあると思います。そこには理論はない……。
ところが、設計は、客観的な建築計画的な側面(もちろん構造、構法、設備、環境なども)と、主観的な形態づくりを「並行させる」必要があります。一部の才能豊かな人たちには、そういう悩みはないのかもしれませんが、凡人は、客観的な側面を押さえることに徹して、つまらない形をつくってしまうか、あるいは、主観をばりばりと前面に押し出して、住みにくい家、使いにくい建物を造ってから理論武装をするか、どっちかです。このことは、町を歩けばよく分かりますよね。
で、上には「並行する」と書きましたが、現実的には、並行は困難。だから、設計を進めながら、主観フェーズと客観フェーズを、交互にもってきて、相互にフィードバックかけてやればよいだけのことです。
ところが、すぐれたCADとかBIMを使えば、デザイン作業と分析作業を完全分離させる必要はなくなります。本来の効率化というのは、こういうことを言うのでしょう。
※上で言う「デザイン」は、日常的に使われている、かなり皮相的な意味での「デザイン」です。
※今回の写真: 『桜』 (上:後楽園、下:半田山植物園←長男9才が撮影)
【過去のテキスト】 EPCOT NET No,32 【 第1回 】 『なぜバブルプラニングは難しいか?』(某氏への手紙) 2003年2月
EPCOT NET は、生活産業研究所(株)のメールマガジンです。これは、No.32に掲載されました。
大学での設計課題では、課題を与えられたら、最初にバブルプラニング(用語として定着したものかどうかは知りませんが、各空間の泡ぶくを膨らませたり凋ませたりしながら、空間を作っていく手法)をやれと指導する場合が多いと思います。各空間の泡ぶくを膨らませたり凋ませたりしながら、全体構成を作っていく手法です。
しかし教員時代、これをやらせても、学生がうまくやってくれたことはほとんどありませんでした。ある程度の研鑽を積んだ人が描くバブルには、基本的な寸法関係と、ある程度のアクティビティが想定されているので、容易に平面構成へと結びつきます。
原因はそこでしょう。基本的な寸法関係の知識があり、アクティビティの想定ができていることが、バブルを使える条件になります。その条件が整わない場合、できるのはせいぜい空間構成のダイヤグラム(各空間のリンク図)作成までです。
大学の授業で、ライトの3つの住宅の平面図を見せ、それの空間構成ダイヤグラムを書かせていました。これは意外と簡単で、大半の学生 は全体形状は異なっていても部屋と部屋の関係が同じであることに気づきました。重要なのは空間構成ダイヤグラムは空間と空間のリンクを示した図式であり寸法要素を持たないのに対し、バブルプラニングはバブルという可変要素を使うからあくまでも寸法ベースの発想である点です。
空間構成ダイヤグラムができたら、バブルプラニングと呼ばれるようなプロセスを経由しなくても大丈夫です。たんに動作寸法や家具サイズを多少意識して壁や開口を配置していけば、建物と呼ばれるものはできあがります。バブルプラニングがなくても、空間構成ダイヤグラム+動作空間サイズ+オブジェクトサイズで平面図は描けるでしょう。動作空間のボリュームも、家具調度設備などのオブジェクトサイズも、ほとんど決まりきった数値があります。
ですから最小規模になるようなプラニングを行ったとすれば、ダイヤグラムの決定から、ただちに平面図へと入っていけます。最小規模でない場合は、すなわち必要とされる動作(むしろアクティビティと呼ぶべき)が増えた場合は、単純化して言えば、挿入したいアクティビティに対応するアクティビティ空間の分だけ、空間を増量してやればよいのです。
バブルプラニングは空間領域のサイズを変えられますがが、行為者としての人体の形状と寸法を考えれば可変である幅はさほど大きくはないでしょう。何であれ、パラメータが増えると解決は困難になりますが、バブルプラニングは無用なパラメータを増加させるだけの結果に陥る危険もあると思います(とくに初心者の場合)。逆に、バブルプラニング的な分析を行うことは、分析プロセスではとても役立つ手法です。
分析的な行為と創造的な行為は、元来、表裏一体となって進んでいくべきものですが、手法まで同じくしなければならないかというと、全くそんなことはないでしょう。
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上記は、一年ほど前に知人に送ったメールからの抜粋である。当時、なぜバブルプラニングに楯突いてみたかというと、親友の家を設計するにあたって、アクティビティだけから空間を組み上げようとしていたからだ。このとき私が書いたことで、もっとも重要なのは、創造的行為と分析的行為を行うためには、それぞれ別の手法なり方法論があってしかるべきだという点だと思う。
建築は芸術ではない。建築家は、芸術家としての創造力と、批評家としての冷徹な観察力を同時に持ち合わせなければならない、非常に両義的な職能である。さて「アクティビティ」という言葉について言えば、私とほぼ同期のシーラカンスが「アクティビティ」を冠した本を出版している。私たちの世代の共通の問題意識なのだろう。アクティビティのデザインが浸透すれば、まちは住みやすくなるはず。
<つづく>
※今回の写真 『お弁当』
【過去のテキストへのコメント】 CADは建築の将来を拓く — ただし教育が正しければ! 1999年12月
下の投稿は、 北海道東海大学(現・東海大学)で教えていたときに、電子計算機室の機関誌”Packet”の23号に執筆したもの。1999年12月発行だから、もう10年近く前です。十年一昔と言われますが、、PCの環境は十年一昔なんてノンキなことは言ってられません。この10年で、PCもCADも大きく変化しました。当時は不可能だったことがどんどんできるようになってきていて、建築をデザインするプロセスでできることが飛躍的に増えました。こういうのは、まじめに設計しようと思ったら、とてもありがたい(はず)と思うわけですが、みなさん、どうなんでしょ?たしかにこの10年で日常的に手にするモノや、身の回りの環境は大きく変わったと言えますけど、概念は、十年一昔というようなハイスピードでは動きません。現状打破をしようとしている人たちをたくさん知っていますが、全般的に、建築教育のコンセプトは旧態依然だと感じます。
「ただし教育が正しければ!」
と、しつこいまでに書いてますが、誤っているとまでは言えずとも、正しくはないという認識は正しいでしょう。冒頭に書いた;
「CADを教えなければならないという思いと焦りはおそらくほとんどの建築系学科に共週しているだろう。」
は、これは10年近くたった今でも変わっていないし、BIMが出てきたので、今後、さらに悪化していく恐れがあります。 いずれにしても、これを書いた当時は、私自身はCAD教育に対する確固たる方向性をつかんでいたので、全く悩みはありませんでした。その方向性は、今でも正しいと思っています。しかし、実現するには、組織ぐるみで動かないと達成できないし、もしかしたら、教育スタッフの再教育あるいは入れ替えが要求されます。だから、なっかなか、動かないし、今後しばらくは、正しくない状況が継続する可能性が非常に高いです。私は旧職場においては、そこの「もどかしさ」や「いらだち」に堪えるのが苦痛でしたね。それから、こういう考えに至るは、当時の同僚の渡辺宏二講師(現・准教授)との会話が大いに役立ちました。いまさらながら、お礼を;「ありがとうございました!」
【過去のテキスト】 CADは建築の将来を拓く — ただし教育が正しければ! 1999年12月
[北海道東海大学(現・東海大学)で教えていたときに、電子計算機室の機関誌”Packet”の23号に執筆したもの。1999年12月発行。]
CADを教えなければならないという思いと焦りはおそらくほとんどの建築系学科に共週しているだろう。しかしCAD教育に関する議論は、技術的側面と理論的側面がないまぜのまま進み、いっしか技術的測面だけが強調され、否定的な結論に至ることが多いようだ。CADが教育プログラムにうまく入っていかない根底にはCADへの大きな誤解があるのではないかと、CADの中に救世主を見る私は、やや被害妄想的に感じている。
CADにかぎらず建築教育における演習系科目の大半は、技術と理論の同時習得を目的としている。たとえば製図演習では、図面上の一本一本の線は何かしらの意味を担っていることを知るのが理論的な理解であり、その線を意味内容に応じて描き分けられるようになることが技術の習得である。やみくもにきれいな線を描けるたけとか、逆に線の意味が分かっていても描き分けられないのでは、製図を学んだとは言えない。
実務に携わる人から「図面が描けない人はCADを使えない」という言葉をしばしば聞く。このセンテンスは技術と理論の不可分の関係を示す好例であり、「図面が描けない→CADを使えない」という技術上の因果関係で捉えるぺきではない。「図面が描けないこと=図面の理論的側面を知らないこと」であり、だからこそ、道具を鉛筆からCADに代えてみても手も足も出ないのである。
教育の現場では、ここにおいて「手書きが先かCADが先か」と、ニワトリと卵のような議論が起きる場合がある。私はどちらでもかまわないと思う。卒業後に手で図面を描くチャンスが稀になった現在では、CADから始めても全く問題ないだろう—–ただし、軟育が正しけれぱ! またそれ以前の誤解とLて、よく「CADか手書きか」という二者択一論的な立脚点を見受けることがある。CADの登場は、設計プロセスで使う道具がひとつ増えたことに過ぎない。そして、スープを飲むのにナイフを使う人はいないように、あるいはスパゲッティを箸で食べてもいいように、目的と、達成されるぺき結末が分かっていれば、TPOに応じた道具を間違いなく選べるのだ—–ただし、教育が正しければ!
あるいはCADを使うことは楽をすることだという先入主もあるようだが、いかなる道具を使おうと産みの苦しみから逃れることはできない。しかし道具が内在する<速度>の差によって、苦しみから逃れるために必要な時問や次の苦しみの局面へと移行する時間は大きく変わるたろう—–ただし、敦育が正しければ!
さらにCADやコンピュータをバーチャルな世界と位置づけ、そこへの傾倒を危惧する声もあるが、パーチャルとリアルはどう見ても異なっており、それらをゴチャマゼにすることなどありえない—–ただし、敷育が正しければ!
偶然見たTV番組で「コンピュータ=バーチャルリアリティのように言われているが、人エ物に囲まれたまち自体がすでにパーチャルリアリティであり脳化されたものである」というようなことを養老孟司氏が述ぺられていた。然り。ビデオゲーム世代が起こす社会問題も、社会や都市環境がバーチャルになっていることに起因するのであって、ちっぽけな機械に責任転嫁するのは可哀相だ。そして、設計図面とは3次元物体の2次元平面への写像という高度に抽象化された記号体系であり、極度にバーチャルなのである。だから読み間達いや解釈の相違といったコミュニケーションの障害がおきやすい。一方3次元CADは3次元物体や空間そのものを見せるから、図面よりも抽象度は低く(リアリティが高いのではない)、障害はおきにくい—–ただし、教育が正しければ!
もしパーチャルな世界に<在る〉ことに危険があるとすれば、それはその人の「想像カの欠如」に基づく。パーチャルとリアルを結びつける想像力や、違いを認知するための想像力である。CAD敦育だけでこれを補うのは無理たが、少なくともCADがアイディアを可視化する圧倒的な速さは、想像力育成に有効に働くだろう。また、CADは想像力を媒介として円滑なコミュニケーションを促進してくれるものでもある—–ただし、教育が正しければ!
私は、正しい!?建築教育とは何かと自問しながら、CΛDの授業を担当している。もちろん正しさとは時代や文化によーつて揺ぐものであるから、普遍的な正しさを求めようということではない。生活のあらゆる局面において「近代的な正しさ」を変容させるべき時期が来ていて、教育機関はその震源にならなければならないとの確固たる認識があるだけだ。私はまた明快な方法論を手中にはしていないが、授業内容や成果についてはホームページなどや紀要への投稿をご覧いただきたい。
参考:佐伯肺著「新・コンピュータと教育』(岩波新書)