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【教育】 情報教育についての小ネタ
まだパソコンが普及しきっていない頃の話ですが、先輩(建築分野)がぼやいていました。以下のような内容です。
卒業したゼミ生が研究室を訪れて「先生のゼミに入ったおかげでワープロを覚えたことが先生に教わったことの中で最も役立っています」と感謝の辞を述べたのだけれど、私はいったい何を指導していたのだろうなぁと思った。
この頃はワープロや表計算を使えることが特殊技能であった時期で、教員の中にもパソコンが使えない人、食わず嫌いする人がたくさんいて、「卒業設計をCADでやるのはけしからん」という意味不明の主張がまかり通る摩訶不思議な時代でした。
いずれにしても、先輩がぼやいたような言葉は、卒業研究指導を担当した者としては嬉しくないセリフです。
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さて、今年も某大学1年生の情報リテラシーの授業が終わりました。
例年通り最後にまとめや感想を書いてもらいましたが、毎年のように「高校まででは教わらなかったCtrl+Cなどのショートカットがとても便利で、役に立った」、あるいは「授業中にタイピング練習をさせてもらえて、入力が楽になった」ということを書く学生が少なからずいます。これらは授業の達成目標であるので、良かったなぁと思います。
ところが今年は「Excelで平均値を求めたり、グラフを作れたりすることを知ってびっくりした」と書いた学生がいて、私がびっくりしました。
こういう文言を目にする度に「高校卒業までに学生たちは情報科目の授業で何を学んできたのだろう?」と考えてしまうわけです。
そして、高校までの先生方に対して申し訳なく思うけれど、ほとんどの学生が、特定ソフトのある程度の操作スキルを身につけていたとしても、ほとんど何も学んでいないと言わざるを得ないのですよね。
他の記事にも書いたけれど、ソフトの表面をなぞるだけの情報教育は有害です。
また現在においてはマウスとキーボードという拷問器具が標準的な入力装置となっています。やむをえないことですが、情報教育においては最初に教えるべきです。必要な道具の扱いを教えずして、その道具を用いる学習が満足にできるはずがありません。これはお習字やお絵かきで筆の持ち方を教えるのと同じことです。私が授業でタイピング練習をさせなければならないのは、高校までの情報教育の指導者の不見識が原因です。(もちろんすべての学校ではありません。幸いと我が子たちの小中高は、授業でタイピング練習をさせています。)
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話が飛びますが、私の授業では様々な制約からMicrosoft Officeを使います。Microsoft OfficeにSmartArtが搭載されてからは、これを積極的に使うように指導しています。学生たちにとても喜ばれます。
情報リテラシーというような名称の科目において、Microsoft Officeというソフトを教えるのであれば、SmartArtを教えないのは異常事態です。というのは、SmartArtを使うことによって自分自身の思考を含めた情報の整理が上達するからです。
【教育】 大学の情報教育
とある大学の1年生前期の情報教育のシラバスを見る機会がありました。そして愕然としました。愕然としたポイントは主に下記の3つです。
- 150名程度1クラスで、PC教室ではない教室で、1人の教員が担当
- 学生は個人のPCを持参することが必須
私自身が非常勤講師として、ある大学で1年生前期の情報教育を担当しています。だからこそ愕然としました。
1. 150名程度1クラスで、PC教室ではない教室で、1人の教員が担当
この大学は60分授業なので、もし演習授業であったとすると教員1名が学生1人当たりに避ける時間は24秒(=60×60÷150)であることから、すべての学生に均等に個別指導を行うことは不可能です。これが理由かどうか分かりませんが、基本的には講義だそうです。
2. 学生は個人のPCを持参することが必須
1の状況から言えばPCは不要であり、講義として学んだ内容を学生が自由に使える大学のPCや自宅のPCで復習すればOKであるはずですが、なぜかノートPCを持参することが要求されています。一般教室で150人分の電源を準備できるとは思えません。案の定、大学生協が扱っている推奨PCはバッテリー駆動時間が10時間以上のタイプです。年式の古いPCを持っていて、それを使おうとする学生はバッテリーが60分も保たないでしょう。バッテリー切れは60分持続するバッテリーを持っていない学生個人の責任になるのでしょうか?
上記に加えて教える立場として最も驚いたのが、全15回中10回は、スムーズに進めば5分もかからないような内容が1コマ分の内容として示されていたことです。
その内容は入学時のガイダンスで終わらせるべき内容、たとえば大学メールアドレスの設定とかクラウドの使い方とかなど、事務的な手続きの説明のようです。「情報教育」と呼べるものではありません。
そして成績評価においては「全出席を前提とする」そうなので、大学入学までに十分なスキルを身につけた学生にとっては無意味に拘束される拷問の時間です。ノートPCで手元が隠されて教卓からは何も見えませんから、ぜひとも内職に励んで欲しいです。もしそれでも単位がもらえるのであれば、学生にとっては美味しい話かもしれません。
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上記とは異なる大学のシラバスには、大学のPCを使うので個人的に所有する義務はないというようなことが書かれていました。
私も自分の授業については「大学の教室で作業可能なので、この授業のためだけにPCを所有する必要はない」という意味合いのことをシラバスに書いています。ひとつの理由はデザイン系の学生を対象としているので学生たちが今後進む専門によって状況が異なり必要となる機器やソフトも異なるため、1年のときに焦って買うと、2,3年次に買い換えの必要が生じることです。もう1つの理由は下記です。
ここ数年、入学時の学生のPC所有率が低下してきています。原因は誰でも容易に想像できる「スマートフォンの普及」です。
冒頭の大学の説明では、レポート作成やプレゼンでWord, Excel, PowerPointを使うからPCが必要らしいのですが、Word, Excel, PowerPoint はとくに凝らないかぎりはスマートフォン版で十分です。30年前は、ワープロ専用機やPC-9801の松や一太郎などのワープロソフトやLotus 1-2-3などの表計算ソフト、あるいはMicrosoft Windows の出始めのころのワープロや表計算ソフトで学位論文を書けました。今のスマートフォン版のオフィスは、そのころよりずっと機能的にも充実しています。だからスマートフォン版ではダメという理由はないはずです。
スマートフォン版の問題を強いてあげれば、キーボードがないこと、画面が小さいことがありますが、Bluetoothのキーボードが使えるし、画面の小ささも目の良い若者にはそれほど障害にはならないようです。機種によってはHDMIケーブルや無線でTVに画面を表示できるので問題の解消は容易です。それなのになぜ「個人のPC」を持参して授業を受ける必要があるのでしょう? 私には理解できません。
ある限られた時期においては情報教育とPCは切っても切れない関係にありましたが、スマートフォンが普及した現在においては、情報教育とPCは切り離せます。そして人文系科目のレポートや調査分析程度であれば、スマートフォン版のWord, Excelで事足ります。
要するに、メール設定、クラウド設定、Word, Excel, PowerPointの使い方を学ぶときにPCは必須ではないということです。
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私は、教育機関における情報教育が特定ソフトや特定機器の扱いを教える場になってはいけないという考えで、状況教育に携わってきました(理想であって実現は困難です)。
情報機器の操作は情報教育において必須ではありません。教授すべき情報機器を操るための概念の修得だから、そのような内容を主体とする授業であれば150人対象の「講義」は成り立ちます。ただしその場合、「演習」ではないので学生たちが自分のPCを持参する必要はありません。
さらに言えば、情報機器の操作(特定ソフト、特定機器の扱い)はメーカーのインストラクターや、Word, Excel 等の民間資格保持者あるいは上位学年をTAとして採用して、入学ガイダンスの一部として時間を充当すれば十分です。
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さて、他の記事に記していますが、情報教育の演習授業から特定の情報機器やソフトの操作を切り離すことは現状では困難です。
だから、大切なのは指導者が明確な切り分け意識を持っているかどうかです。
知識やスキルが一様で無い学生たちを十把一絡げに扱うために何をどうすべきか考えると、どのような授業内容にすれば良いか見えてくるはずです。言うは易く行うは難しで、私も毎年苦慮しますが、少なくとも全員がズブの素人であると見做したような授業はペケだと思います。
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ついでに言えば、上記の授業は複数の教員が担当しますが、責任者として私の知っている人の名前が出ていました。知っている理由は、その人の子供が私の息子の友人だったからです。あるとき息子から、その友人が我が家の目の前で自転車のチェーンがはずれて困っているので直そうと思ったがチェーンが固くて動かせないとヘルプを求められました。そこで出て行ってみたら、外れたチェーンがギアとフレームの間に挟まって外せなくなっていました。チェーンもギアも油が完全に切れてパサパサで、大人の力でも動かせない状態でした。そこで、いったん家に戻って自転車オイルを持ってきて、チェーンとギアにたっぷりと付けて滑りをよくしてから外して直しました。その後、ギアとオイルにオイルをさし、変速機やブレーキのワイヤの調整をしてやりました。その子は「乗り心地が良くなった」と喜んでいました。
どうして上記を書いたかというと、自分の子供の自転車を機械的に整備できない人が、工学系の大学教員であるという事実に驚愕したからです。大学教員であることは知っていましたが、文系だと思い込んでいました。授業の責任者がそのような人物が責任者であるから、上に書いたような態勢で情報教育を行うことに何ら疑問を感じていないのだろうと思ったわけです。
【教育】 スマートフォン普及とPCスキルや知識の低下
この25年くらい大学や専門学校でPCを教えています。
数年前までは、学生たちのスキルや知識が徐々に向上していることが感じられました。しかし、そのころをピークに、いまは急勾配の下降線を辿っています。大雑把な印象ですが、スキルや知識の面では15年くらい前に近いような気がします。15年前と違う点を強いて挙げれば、コンピュータに対する恐れを感じている学生がほとんどいなくなっていることです。これは情報機器の日常への入り込みの度合いの高まりを示すのだと思いますが、授業運営の観点からは何かに大きく関与することではありません。
シラバスはきちっと作りますが、毎年の入学者のスキルや知識のレベルが一様ではないので実態は自転車操業にならざるを得ない部分があります。といっても、6~3年前くらいまでは学生たちのスキルや知識がかなり安定していて、同等の授業計画で進められていました。
ところが、一昨年からごろから遅れが生じ始めました。去年は一昨年より遅れ、今年は去年より遅れていて、授業回数で言えばほぼ2コマ分の遅れです。学生たちが躓くポイントや質問する内容から、ボトムラインがピーク時よりかなり下がっていることを実感しています。(学生たちの一般的な能力や理解力が落ちたということではなく、たんにPCに関するスキルや知識が落ちてきているということです。)
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口頭での質問にすぎませんが、毎年の授業初回にPC所有(専用・家族共用とも)の有無を質問します。ピークであった 5、6年前は所有していない学生は全体の1割程度でした。
一方で、3年ぐらい前からスマートフォンを持っていない学生はゼロになっています。
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つまり、彼らにとってのメインの情報機器はスマートフォンであり、PCではないということです。
今年、とある大学の文系学部の新入生君に「情報教育の授業で使うのでノートパソコンが必要と言われたが、家には大学推奨のノートパソコンより性能の良いデスクトップがあるし、持ち運びするには iPad とBluetoothのキーボードがあるので、自分としてはノートパソコンは不要だ。こういう場合どうするのがよいだろうか?」と相談を受けました。
この大学では情報教育の授業にノートパソコンを各自が持ち込むのが原則であるそうです。具体的には、Windows 10、Microsoft Office (Word, Excel, PowerPoint)、無線LAN、授業時間もつバッテリー性能が求められますが、これならばiPad で十分です。そもそもパソコンは必要ありません。
Windows版のMS Office とiOS版、Android版では機能の豊富さが異なりますが、文系学部生が大学4年間で使う程度であればiOS版、Android版で十分でしょう。スマートフォンの難点は、画面が小さいので微細な操作をやりにくい点です。でもiPad程度の画面があればなんとかなります。
新入生君に相談を受けたときに私が感じた違和感は、大学が授業で一人1台使える環境を整えず学生に購入させるという点ですが、これについては予算の都合とかあるだろうからクレームを付けてみても相手方を困らせて終わるだけでしょう。
そこで、新入生君に対しては、大学の担当教員に上記の事情を伝えて相談するように言ったところ、担当教員が話の分かる人だったらしく、ノートパソコンを持参しなくてもよいという結論になったようです。めでたしめでたし。
さて、この大学では情報科目以外でもノートパソコンの持ち込みを要求される授業があるそうですが、授業中にレポートを書くためにWordを使うだけみたいで、iPad プラス Bluetooh キーボードで十分間に合っているようです。最悪の事態(?)に備えて、Splashtop(年間2000円) で自宅のデスクトップPCをリモートで操作できるようにすることを薦めたところ、早速、使っているようです。
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たぶん、ほとんどの教育機関で同様だと思いますが、情報教育という立派なお題目を掲げていても良くも悪くもパソコン教室でパソコンソフトを教えるのが実態であり、真の情報教育ができていないところばかりだと思います。現状ではパソコンやパソコンソフトを介さない授業運営が困難なのでやむをえない面があります。OSもソフトもデファクトスタンダードに支配されている現状が続くかぎりは難しいでしょう。
でも、将来、そのような状況を回避できるようになったら、学生が利用する機器の自由度が高まるだろうと思います。
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また、CG や CAD、あるいは高度な科学技術計算、膨大な統計処理などに関しては、ソフトがPC対応のものしかないという理由で PC は必須ですが、Office系ソフトであればiOS、Androidのタブレットでも事足ります。件の新入生君の大学も、ちょっと頭を切り替えて「Windowsのノートパソコン必須」ではなく、せめて「教室でMS Officeを動かせる環境が必須」程度の柔軟性をもってくれると良いなぁと思います。
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追記(2020/8/30)
COVID19によるオンライン授業のため、図らずも使用機器を限定しない授業を行うことになりました。結論だけ言いますが、その状況に対応できる教材づくりは大変で、不完全に終わってしまいました。またデザイン学部向けにやや特化した課題を行うので、スマートフォンやタブレット利用学生はそれなりの苦労があったようで、とても申し訳なかったです。
【教育】 サンキューハザードと情報教育
ずいぶん前から、「サンキューハザード」(ありがとうハザード)という愚かな行為が蔓延していますね。無理矢理割り込むための免罪符として使う人もいます。「ありがとう」と言えば、他人を危険にさらしてもよいのでしょうか。
サンキューハザードは法律的には違法ではないらしいので、浅はかな行為だと言ったら怒る人がたくさんいそうです。
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私は、自分が譲ったときにサンキューハザードをされると譲ったことを後悔します。なぜなら、「サンキューハザードをするということは、その運転手には自分が出す情報の意味を考える力が欠如している」と捉えるからです。経験的にはサンキューハザードを出す人は、出さない人と比べると他者に対する情報提供が下手であるという印象を持っています。たとえば、突如スピードを落として急にウィンカーを出して後続車に回避行動を余儀なくさせるなど。
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話が飛びますが、運転中にあまりにも押しやすい位置にハザードランプのスイッチをレイアウトするデザイナーもペケだと思います。
現在の私の車はA/Cスイッチのすぐ下、内気循環と外気取り入れの切り替えスイッチの上にあります。これら2つのスイッチはブラインドタッチした場合の手触りと形状が似ているので、たま~に間違えてハザードを点滅させて回りの人に迷惑をかけてしまいます。私のとは異なる車種でも「なぜ、いまハザード?」と不思議になるような出し方をする人がいますが、これも多分スイッチの押し間違えでしょう。
この場合、間違えたユーザーが悪いのではなく、このようなヒューマンエラーを想定していないデザインがダメです。以前乗っていた車のひとつは、ハンドルの輪っかの中に手を突っ込んで、その奥にあるスイッチをグイっと押す必要があったので、気楽にほいっと押せるものではありませんでした。だから他のスイッチと間違えることは決してありませんでした(とは言え、押しづら過ぎましたが)。
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話を本題に戻すと、道路交通法に定められているハザードランプ(正式には非常点滅灯)の使い方を見れば「自分の状況を公的に伝えることが目的である」と分かります。
一方、譲ってもらったときの「ありがとう」の伝達は当事者間だけで成り立てば十分です。
「後続や対向車線の多くの車の運転者たちが、自分のハザード点灯をどのように解釈するだろうか?」と考えれば、サンキューハザードの無意味さとリスクは簡単に理解できると思います。
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このような公的な情報提供手段と当事者個人間の情報交換手段の混同は、SNSにおいても見られます。今の情報教育はコンピュータやインターネットの中の情報に閉ざしていますが、上記のようなことも情報教育における重要な視点です。
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脇道から前に割り込んできた車が、ハザードランプのスイッチを押す操作のために目の前で蛇行したり減速したりするのは、本当に危ないし迷惑です。前に入ったら、まずは流れにスムーズに乗ることを最優先させるのが正しい感謝の仕方です。直接譲ってくれた車は一台だけですが、それに続く車たちも速度を落とすとか、数秒待つなどのサービスをしてくれているわけですから、感謝すべき相手は直接譲ってくれた一台だけではありません。自分にとってありがたい状況を生み出してくれた全ての車の運転手への感謝が必要であり、そのためにこそ場を乱さないこと、つまり、運転中であれば流れを素早く元の状態に戻すために自分が尽力することを優先させるのがマナーであるはずです。授業中に私語を慎むべき理由と同じです。
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ついでに言うと、譲ったときなどに会釈をする運転手も怖いです。会釈すると視線が下に行きます。つまり前方不注意の状態に陥っています。狭い道でのすれ違い時に会釈する人には、車を擦られるのではないかと怖くてしょうがないです。会釈も無用です。お互いに心の中で「ありがとう」と言えば十分であり、その感謝の気持ちを次に出会う他の人に向ければよいのです。
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このように場全体としての安全を図るためには、運転手が体を動かして行う感謝の行為は無用だと考えるのがよいでしょう。
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追記(2022/1/20)
このような記事を見つけました。上記のように情報を混乱させてはいけないという観点からであり、全面的に賛成です。
JAFは「サンキューハザード」をなくしたい! 背景にある「最新の運転支援装備」に組み込まれる「本来の使い方」とは
JAFではなく警察が推し進めるべきだと思いますが、このような方向性で進むことを願います。
【教育】 日本人が書いた英文が載る英語教科書への違和感
高校生の娘の英文読解の予習を手伝っていたときのことです。
大変に読みにくい英文である反面、日本語らしい日本語に訳すのとてもが楽で違和感がありました。「もしかしたら、この英文は日本人が書いたものではないかな?」と娘に聞いたらその通りで、冒頭にアメリカに留学した日本人が書いたことが示されていました。
大人になってから英語圏での生活を始めた日本人が書いた英文だったことから、発想や展開が日本人的で、英文としては読みにくい一方で日本語化は容易だったのだろうと思います。面白い現象でした。
この教科書には、その他にも日本人が書いたと思われる英文が出ています。いずれも違和感がある英文です。教科書にありがちな個人の生き方とそれがもたらす人生訓のような文章なので、その内容を学ぶこと自体は教育的であるでしょう。しかし英語の学習に適しているとは思えません。この英文を読めるようになっても、応用がきかないでしょう。
このような文章を選んだ背景には著作権の絡みがあったのかもしれませんが、英語は英語として学ばないと文化を理解できません。言うまでもなく、言語の理解は文化の理解です。
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追記
大学院時代に、専門的な文書の和文英訳の依頼を受けたことが何度かあります。あるときはイギリスで開催される展覧会で使う資料の翻訳だったので、一通り英訳した後で友人のイギリス人(ケンブリッジ大学卒)に添削してもらいました。自分でも不自然な箇所が多いことは承知の上でしたが、案の定、友人から返された原稿には山ほど朱が入れられていたので「あぁ、まだまだダメだなぁ」とぼやいたら、友人は「そんなことないよ、(書いてあることが)全部分かったよ」と答えました。この言葉にさらに落ち込む私を見て彼が言ったのは「(私の翻訳は)英語になっている。日本人が書いた英語は英語になっていないことが多いよ」。最初の言葉は「全部分かったよ」は友人としては褒め言葉だったみたいです。
そして、友人の添削は「そうそう、英語でこう表現したかったんだ!」と嬉しくなる指摘ばかりで、最終的に英語の書物で目にするような自然な英文になりました。こういうプロセスによって、英語を使う人たちの考え方をより深く知ることができたと思います。
だからこそ、上に書いたような和製英語を英語の教材にするのはよろしくないと思うわけです。
【CADとかBIMとか】 結局JW_CADの図面は、、
25年くらい前はJW_CADをよく使っていた。貧乏人でも入手でき、かつ、当時のPCの性能で満足に動くのはJW_CADしかなかったので、CADを使いたい場合の唯一の選択肢だった。
その後、3D-CAD、BIMとCADソフトの推移とともに私のメインのCADも変遷し、もう15年以上、JW_CAD を含めた製図専用CADをしっかりと使ったことはない。
久しぶりにJW_CADで他の人が描いた図面を扱う必要が生じて、あらためて嘆息したのはJW_CAD は印刷時の表現しか考えない使い方がほとんどだということである。線の太さを色分けしただけの図面で、レイヤーの意味を捉えた使い方がなされているケースが少ないのである。
もちろんJW_CADは製図板と製図道具をソフトウェアとして実現したにすぎないから、図面の見た目(=印刷時の表現)だけを考えることを問題視する必要はない。レイヤーをどう扱おうと、同じ色の線は同じ太さで印刷されるから印刷結果だけが目的であれば十分だが、そればかり考えて作られたデータはデータベースとして美しくないし、BIM に持ち込んで処理することを考えると途方に暮れる。
BIMソフトを使ったり教えたりするようになった今、JW_CADで製図ではなく設計を教えようとしていた25年前ごろの私は相当に無謀だったと思う。当時は、レイヤーの意味づけを強く強調していた。
今回、久しぶりにほんのちょっとだけJW_CADを使ったが、ズーミングやスナップのハンドリングの良さは相変わらず快適で、製図CADとしての完成度の高さにあらためて感心した。
JW_CADは、CADの系統樹のひとつの枝の先端に実った美味しい果実であり、BIMはこれとは違う枝に実る。BIMの枝はまだまだ伸びていくが、JW_CADの枝はもう伸びることはないだろう。
【教育】 留学生の友人と漢字、そして文部科学省の報告
大学院時代の思い出話です。多少、脚色しながら。
あるとき、マーチンさんが漢字を書いているのを見て「書き順が違うよ」と教えました。マーチンさんは書き上げた文字を指して「でも読めるよ」と答えました。返す言葉がありませんでした。
ほかのあるとき、マーチンさんが漢字熟語の読みを間違えていたので「読み方が違うよ」と教えました。マーチンさんは「でも(意味が)分かるよ」と答えました。このときも返す言葉がありませんでした。
華僑の子孫ユさんは私と同世代ですが、私の世代の日本人は学校で習っていない旧漢字をすらすらと書きます。漢字を使わない国で生まれ育ったため、ご先祖の時代の中国の漢字をそのまま学んだユさんにとっては「旧」ではなく「日常」なんですね。私が「それは間違いではないし、多くの人が分かるけれど、今は使わない」と言ったら、「でも、間違いではなくて、みんな分かるのだったら、使ってもいいでしょう」とユさんは答えました。これにも返す言葉がありませんでした。
日本の学生さんが間違いを言い繕おうとしたのとは異なって、文字や言葉の本質を突いた発言だったと思います。
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書き順とは筆記具を合理的に動かすための法則であり、読みとは音声コミュニケーションのために発音を統一した結果ですが、もっと掘り下げれば書き順も読みも慣習に過ぎないわけで、最終的に文字形態として完成させること、ひとつひとつの意味を理解しておくことの重要さ、あるいは文字というものはコミュニケーションツールであり互いが理解できれば十分であるということなどを、二人の友人は私に教えてくれたのだと思います。
子供たちが小中学校で書き順や読みをテストで間違えて減点される度に思い出す大学院時代の懐かしい会話です。
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今春(2016/2/29)、文部科学省から『常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について』が発表されました。「はね、とめ、はらい」について、そんなに目くじら立てなくてよいという内容です。
漢字の字体・字形については,昭和24年の「当用漢字字体表」以来,その文字特有の骨組みが読み取れるのであれば,誤りとはしないという考え方を取っており(以下略)
(上記の文科省HPより。下線は筆者による)
国家はコミュニケーションツールとしての漢字の意味を理解していたということで、ホッとしました。
【教育】 あるライターによればショートカットは「神テク」だそうだ、、、、
Business Journal というサイトに、『ビビるほと仕事が速くなる!PCのショートカット「神テク」はこれだ!』が出ていました。歴史的にはキーボードショートカットよりマウスの方が新しい入力方法で、私がPCにさわり始めた頃はマウスという入力装置はなく、キーボードショートカットしか操作方法がありませんでした。WordMasterライク, Wordstarライクとかキーボードショートカットの流派があったこと、何かソフトを買うときはショートカットキーのカスタマイズが可能なものを選んでいたことなどは、懐かしい思い出です。
当該記事のライターはマウスがなかった時代の操作を知らない人なのかもしれませんが、いずれにしてもこのサイトは眉唾物のタイトルの記事がけっこう多い感じで、ライターの程度が知れますが、学校でPCを学んだときにキーボードショートカットを教えてもらえなかった不幸な学生さんたちにとっては、目から鱗が落ちる記事なのかも知れません。実際のところ、キーボードショートカットを知らない/使えない人が教えている現場に遭遇したこともあるので、、、、。件の記事のURLは下記(この記事がいつまで公開されるかは知りません)。
http://biz-journal.jp/2016/01/post_13442.html
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それはさておき、マウス、キーボードという拷問道具は早くなくなってほしいと思いますが、タッチ入力はまだしも、音声入力は自分が間抜け人間になった気がするし、体にセンサーはつけたくないし、思考(脳活動)がそのまま入力されたら悟りのお化けを相手にしているみたいでイヤになりそうです。インタフェースを考えるのは難しいです。
そういう意味では、今のインタフェースを活かす態度が大切。キーボードショートカットは「神テク」などではなく、使わない人が愚かなだけです。箸で物を突き刺して食べることしかできないのと似たようなものでしょう。
ショートカットキーを使っていたとしても、左手の人差し指でCtrlを押して、右手の人差し指でSを押す姿は滑稽けです。
私が知っているタイピング練習ソフトは、昔のタイプライター時代の教本と同じことしかやっていない印象です。パソコンソフトなのにキーボードショートカットの練習がないのは片手落ちだと、今更ながらに思いました。
【教育】 高校のプレゼンテーション大会を見学して
先日、息子の高校でプレゼンテーション大会が開かれたので見学に行った。
1年生の情報教育の授業の一環としてPowerPointでスライドショーを作り、クラスで全員発表し、その中から評価の高かった学生がクラス代表として、プレゼンテーション大会に出場したそうだ。
9名が発表したが、手に原稿を持って読んだ者はゼロ、みんな聴衆の方を向いて話していた。まず、この点で良い教育をしていると感じた。
さて、仕事現場では「これだったらスライドをそのまま印刷して配布してもらって、つまらない説明なしで紙資料を自分で読んだ方がよく理解できただろう」という印象の退屈で下手なプレゼンが多いが、学生たちの発表はそうではなかった。スライドと語りの両方が相まってひとつのプレゼンとなるように工夫されていた。完璧であったとは言えないが、彼らの世代が社会人となったら、こういうプレゼンが増えていくのだろう(というか、そうなることを期待する)。
とにかく、この高校では、PowerPointのスキル、発表のスキルについて、かなり充実した指導がなされているのだろうと思う。
私は大学で1年生にコンピュータリテラシーを教えているのだが、少なくない数の学生が高校でナンセンスな情報教育を受けさせられと思わざるを得ない。彼らが失った時間を思うと悲しくなる。
ところが、視覚デザインとしての出来映えはいまひとつだった。このことは現在の情報教育が抱える問題のひとつだと思う。しかし芸術科目が選択制であるために「美術」を学ばない学生がいることなどから、現状のカリキュラムではこの問題を解消するのは困難かもしれない。
プレゼンに限らないが、デザインの感性的な部分が強調されがちで理論の部分がおざなりになっているのが、私の時代から変わらない小中高の美術教育であるような気がする。個性を重視しながら感性を評価することも重要だが、多くの人に伝わる美を理論的な側面から身につけることの方が、学校教育にはふさわしく、長い目で見て役に立つと思う。
【教育】 インターフェースデザインについて少し、、それとバリアフルデザイン
ユニバーサルデザイン
バリアフリーデザイン
ニュアンスは異なりますが、どちらも使う人が困らないようにしようという気持ちから行うデザインです。
日本語で「デザイン」と言うと「見た目」のことだけに言及している場合が多いですが、デザインとは使い勝手、安全性など、総合的な物作りのことです。
そして、見た目だけを重視した場合、それがバリアフリーデザインならぬ、バリアフルデザインになっている場合がしばしば見受けられます。(バリアが full、つまりバリアだらけという意味ですが、バリアフリーと語呂合わせした自製英語です。たぶん15年くらい前から授業で、形態、肉体、動作、心理などいろんな側面のバリアに対して使ってきました。)
バリアフルの度合いについては実際に手に持って使うものの場合はひどくないですが、建築物にはそのようなものがたくさんあります。この後で記すインターフェースデザインもひどいものが多いです。
一例をあげると、iOS の Apple Store を iPad でみたときの画面がバリアフルだと言えます。
下に、画面のスクリーンショットを掲載します。
ほとんどの人は、40才過ぎた頃から老眼になり始めます。
老眼になると近いところのピントが合わなくなるので、新聞や本など手に持って読むものの文字を読みにくくなってしまうわけで、手に持って読む程度の距離の文字は小さすぎない方がありがたいです。
で、iPhoneのような小さい画面より、iPadのように少しでも大きな画面の方がありがたいのです。
ところが、上のスクリーンショットはどうでしょう?
せっかく広い画面を使っているのに、その半分程度の面積にしか必要情報を表示していません。
そのことに有意な理由があるのでしょうか? 私には分かりません。
Apple Storeのアプリ説明が全画面を使わなくなったのはiOS7のときからで、iOS6のときは全画面を使っていたか、あるいはもっと広く画面を使っていたと思います。表示面積が小さくなったために表示できる情報量も激減しています。したがって、少なくとも私にとっては改悪でしたが、このインタフェースデザインの変更によって情報を得やすくなった人はどれくらいの割合で存在するのでしょう? iOSのデザイナーはどういう理由で広い画面の一部だけを使うという選択肢を選んだのでしょう?
Apple Storeにかぎらず、iOS 7以降、せっかく広い画面を使えるのに、わざわざ小さく表示して、たとえば老眼だけでなく視力に問題を抱えている人の視認性を落としたり、スクロール無しで表示される情報量を減らしたりしているインタフェースが増えました。バリアフルとまでは言えませんが、バリアフリーデザインでも、ユニバーサルデザインでもないことは確かです。
こういうところに、インターフェースのデザインの教育不足を感じます。
重要なのは、自分の目が悪かったらどうだろう、とか、指が不自由だったらどうだろう、とか、想像力を鍛えることだと思います。