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Archive for the ‘教育’ Category

【教育】mをmmに換算できない高卒者が存在すること

高校を卒業した学生を受け入れる学校において、m(メートル)をmm(ミリメートル)に換算できない学生が多いことに毎年のように驚かされています。

1m=1000mmであることを利用して換算すればよい。(要するに1000倍すればよい。)

と言っても分からない学生が少なからずいます。

高卒者に対してmからmmへの換算法を説明しなければならないという点でトホホなんですが、こういう学生は抽象的把握ができないので、たとえば「5m」は「5000mm」だということを説明した結果「5m=5000mm」を覚えられたとしても、彼らの頭に残るのは「5m=5000mm」というたった1つの事実だけなので、応用ができません。たとえば「5m=5000mm」という事実を知っていても、「10m」をmm単位に換算できないのです。(これが出来ない学生は、単位にかぎらず他の多くのことができません。)

そこで、次のように教えます。

「ゼロを3つ付けろ!」

でも「cm」だとお手上げになるので困ります。sigh……

 

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カテゴリー:教育

【教育】 情報教育についての小ネタ

まだパソコンが普及しきっていない頃の話ですが、先輩(建築分野)がぼやいていました。以下のような内容です。

卒業したゼミ生が研究室を訪れて「先生のゼミに入ったおかげでワープロを覚えたことが、会社でとても役立っています」と感謝の辞を述べた。私はいったい何を指導していたのだろうなぁ、、、、。

この頃はワープロや表計算を使えることが特殊技能であった時期で、教員の中にもパソコンが使えない人、食わず嫌いする人がたくさんいて、「卒業設計をCADでやるのはけしからん」という意味不明の主張がまかり通ったする時代錯誤な時代でした。

いずれにしても、先輩がぼやいたような言葉は、卒業研究指導を担当した者としては嬉しくないセリフです。

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さて、今年も某大学1年生の情報リテラシーの授業が終わりました。

例年通り最後にまとめや感想を書いてもらいましたが、毎年のように「高校まででは教わらなかったCtrl+Cなどのショートカットがとても便利で、役に立った」、あるいは「授業中にタイピング練習をさせてもらえて、入力が楽になった」ということを書く学生が少なからずいます。

そして今年は「Excelで平均値を求めたり、グラフを作れたりすることを知ってびっくりした」と書いた学生がいて、私がびっくりしました。

こういう文言を目にする度に「高校卒業までに学生たちは何を学んできたのかな?」と考えてしまうわけです。

そして、高校までの先生方に対して申し訳なく思うけれど、ほとんどの学生が、ある程度の操作スキルを身につけていたとしても、ほとんど何も学んでいないと言わざるを得ないのですよね。

他の記事にも書いたけれど、ソフトの表面をなぞるだけの情報教育は有害です。

それから、現在においてはやむをえないこととは言えマウスとキーボードという拷問器具が標準的な入力装置だから、情報教育においては最初に教えるべきです。必要な道具の扱いを教えずして、その道具を用いる学習が満足にできるはずがありません。これはお習字やお絵かきで筆の持ち方を教えるのと同じことです。私が授業でタイピング練習をさせなければならないのは、高校までの情報教育の指導者の不見識が原因です。(もちろんすべての学校ではありません。幸いと我が子たちの小中高は、授業でタイピング練習をさせています。)

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話が飛びますが、私の授業では様々な制約から、Microsoft Officeを使います。Microsoft OfficeにSmartArtが搭載されてからは、これを積極的に使うように指導しています。学生たちにとても喜ばれます。

情報リテラシーというような名称の科目において、Microsoft Officeというソフトを教えるのであれば、SmartArtを教えないのは異常事態です。というのは、SmartArtを使うことによって、自分自身の思考を含めた情報の整理が上達するからです。

 

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【教育】 大学の情報教育

とある大学の1年生前期の情報教育のシラバスを見る機会がありました。そして愕然としました。愕然としたポイントは主に下記の3つです。

  1. 150名程度1クラスで、PC教室ではない教室で、1人の教員が担当
  2. 学生は個人のPCを持参することが必須

私自身が非常勤講師として、ある大学で1年生前期の情報教育を担当しています。だからこそ愕然としました。

1. 150名程度1クラスで、PC教室ではない教室で、1人の教員が担当

この大学は60分授業なので、もし演習授業であったとすると教員1名が学生1人当たりに避ける時間は24秒(=60×60÷150)であることから、すべての学生に均等に個別指導を行うことは不可能です。これが理由かどうか分かりませんが、基本的には講義だそうです。

2. 学生は個人のPCを持参することが必須

1の状況から言えばPCは不要であり、講義として学んだ内容を学生が自由に使える大学のPCや自宅のPCで復習すればOKであるはずですが、なぜかノートPCを持参することが要求されています。一般教室で150人分の電源を準備できるとは思えません。案の定、大学生協が扱っている推奨PCはバッテリー駆動時間が10時間以上のタイプです。年式の古いPCを持っていて、それを使おうとする学生はバッテリーが60分も保たないでしょう。バッテリー切れは60分持続するバッテリーを持っていない学生個人の責任になるのでしょうか?

上記に加えて教える立場として最も驚いたのが、全15回中10回は、スムーズに進めば5分もかからないような内容が1コマ分の内容として示されていたことです。

その内容は入学時のガイダンスで終わらせるべき内容、たとえば大学メールアドレスの設定とかクラウドの使い方とかなど、事務的な手続きの説明のようです。「情報教育」と呼べるものではありません。

そして成績評価においては「全出席を前提とする」そうなので、大学入学までに十分なスキルを身につけた学生にとっては無駄なことに拘束される拷問の時間です。ノートPCで手元が隠されて教卓からは何も見えませんから、ぜひとも内職に励んで欲しいです。もしそれでも単位がもらえるのであれば、学生にとっては美味しい話かもしれません。

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上記とは異なる大学のシラバスには、大学のPCを使うので個人的に所有する義務はないというようなことが書かれていました。

私も自分の授業については「大学の教室で作業可能なので、この授業のためだけにPCを所有する必要はない」という意味合いのことをシラバスに書いています。ひとつの理由は、デザイン系の学生を対象としているので学生たちが今後進む専門によって状況が異なり、必要となる機器やソフトも異なるので、1年のときに焦って買うと、2,3年次に買い換えの必要が生じることです。もう1つの理由は下記です。

ここ数年、入学時の学生のPC所有率が低下してきています。原因は誰でも容易に想像できる「スマートフォンの普及」です。

冒頭の大学の説明では、レポート作成やプレゼンでWord, Excel, PowerPointを使うからPCが必要らしいのですが、Word, Excel, PowerPoint はとくに凝らないかぎりはスマートフォン版で十分です。30年前のワープロ専用機やPC-9801の松や一太郎などのワープロソフトやLotus 1-2-3などの表計算ソフト、あるいはMicrosoft Windows の出始めのころのワープロや表計算ソフトで学位論文を書けました。今のスマートフォン版のオフィスは、そのころよりずっと機能的にも充実しています。だからスマートフォン版ではダメという理由はないはずです。

スマートフォン版の問題を強いてあげれば、キーボードがないことと、画面が小さいことがありますが、Bluetoothのキーボードが使えるし、画面の小ささも目の良い若者にはそれほど障害にはならないようです。機種によってはHDMIケーブルや無線でTVに画面を表示できるので問題の解消は容易です。それなのになぜ「個人のPC」を持参して授業を受ける必要があるのでしょう? 私には理解できません。

ある限られた時期においては情報教育とPCは切っても切れない関係にありましたが、スマートフォンが普及した現在においては、情報教育とPCは切り離せます。そして人文系科目のレポートや調査分析程度であれば、スマートフォン版のWord, Excelで事足ります。

要するに、メール設定、クラウド設定、Word, Excel, PowerPointの使い方を学ぶときにPCは必須ではないということです。

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私は、教育機関における情報教育が特定ソフトや特定機器の扱いを教える場になってはいけないという考えで、状況教育に携わってきました(理想であって実現は困難です)。

情報機器の操作は情報教育において必須ではありません。教授すべき情報機器を操るための概念の修得だから、そのような内容を主体とする授業であれば150人対象の「講義」は成り立ちます。ただしその場合、「演習」ではないので学生たちが自分のPCを持参する必要はありません。

さらに言えば、情報機器の操作(特定ソフト、特定機器の扱い)はメーカーのインストラクターや、Word, Excel 等の民間資格保持者あるいは上位学年をTAとして採用して、入学ガイダンスの一部として時間を充当すれば十分です。

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さて、他の記事に記しまていますが、情報教育の演習授業から特定の情報機器やソフトの操作を切り離すことは現状では困難です。

だから、大切なのは指導者が明確な切り分け意識を持っているかどうかです。

知識やスキルが一様で無い学生たちを十把一絡げに扱うために何をどうすべきか考えると、どのような授業内容にすれば良いか見えてくるはずです。言うは易く行うは難しで、私も毎年苦慮しますが、少なくとも全員がズブの素人であると見做したような授業はペケだと思います。

 

 

 

 

カテゴリー:教育

【教育】 スマートフォン普及とPCスキルや知識の低下

この25年くらい大学や専門学校でPCを教えています。

数年前までは、学生たちのスキルや知識が徐々に向上していることが感じられました。しかし、そのころをピークに、いまは急勾配の下降線を辿っています。大雑把な印象ですが、スキルや知識の面では15年くらい前に近いような気がします。15年前と違う点を強いて挙げれば、コンピュータに対する恐れを感じている学生がほとんどいなくなっていることです。これは情報機器の日常への入り込みの度合いの高まりを示すのだと思いますが、授業運営の観点からは何かに大きく関与することではありません。

シラバスはきちっと作りますが、毎年の入学者のスキルや知識のレベルが一様ではないので実態は自転車操業にならざるを得ない部分があります。といっても、6~3年前くらいまでは学生たちのスキルや知識がかなり安定していて、同等の授業計画で進められていました。

ところが、一昨年からごろから遅れが生じ始めました。去年は一昨年より遅れ、今年は去年より遅れていて、授業回数で言えばほぼ2コマ分の遅れです。学生たちが躓くポイントや質問する内容から、ボトムラインがピーク時よりかなり下がっていることを実感しています。(学生たちの一般的な能力や理解力が落ちたということではなく、たんにPCに関するスキルや知識が落ちてきているということです。)

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口頭での質問にすぎませんが、毎年の授業初回にPC所有(専用・家族共用とも)の有無を質問します。ピークであった 5、6年前は所有していない学生は全体の1割程度でした。

一方で、3年ぐらい前からスマートフォンを持っていない学生はゼロになっています。

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つまり、彼らにとってのメインの情報機器はスマートフォンであり、PCではないということです。

今年、とある大学の文系学部の新入生君に「情報教育の授業で使うのでノートパソコンが必要と言われたが、家には大学推奨のノートパソコンより性能の良いデスクトップがあるし、持ち運びするには iPad とBluetoothのキーボードがあるので、自分としてはノートパソコンは不要だ。こういう場合どうするのがよいだろうか?」と相談を受けました。

この大学では、情報教育の授業にノートパソコンを各自が持ち込むのが原則であるそうです。具体的には、Windows 10、Microsoft Office (Word, Excel, PowerPoint)、無線LAN、授業時間もつバッテリー性能が求められますが、これならばiPad で十分です。そもそもパソコンは必要ありません。

Windows版のMS Office とiOS版、Android版では機能の豊富さが異なりますが、大学4年間で使う程度であればiOS版、Android版で十分でしょう。スマートフォンの難点は、画面が小さいので微細な操作をやりにくい点です。でもiPad程度の画面があればなんとかなります。

新入生君に相談を受けたときに私が感じた違和感は。大学が授業で一人1台使える環境を整えず学生に購入させるという点ですが、これについては予算の都合とかあるだろうから、クレームを付けてみても相手方を困らせて終わるだけでしょう。

そこで、新入生君には、大学の担当教員に上記の事情を伝えて相談するように言ったところ、担当教員が話の分かる人だったらしく、ノートパソコンを持参しなくてもよいという結論になったようです。めでたしめでたし。

さて、この大学では情報科目以外でもノートパソコンの持ち込みを要求される授業があるそうですが、授業中にレポートを書くためにWordを使うだけみたいで、iPad プラス Bluetooh キーボードで十分間に合っているようです。最悪の事態(?)に備えて、Splashtop(年間2000円) で自宅のデスクトップPCをリモートで操作できるようにすることを薦めたところ、早速、使っているようです。

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たぶん、ほとんどの教育機関で同様だと思いますが、情報教育という立派なお題目を掲げていても良くも悪くもパソコン教室でパソコンソフトを教えるのが実態であり、真の情報教育ができていないところばかりだと思います。現状ではパソコンやパソコンソフトを介さない授業運営が困難なのでやむをえない面があります。OSもソフトも、デファクトスタンダードに支配されている現状が続くかぎりは難しいでしょう。

でも、将来、そのような状況を回避できるようになったら、学生が利用する機器の自由度が高まるだろうと思います。

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また、CG や CAD、あるいは高度な科学技術計算、膨大な統計処理などに関しては、ソフトがPC対応のものしかないという理由で PC は必須ですが、Office系ソフトであればiOS、Androidのタブレットでも事足ります。件の新入生君の大学も、ちょっと頭を切り替えて「Windowsのノートパソコン必須」ではなく、せめて「教室でMS Officeを動かせる環境が必須」程度の柔軟性をもってくれると良いなぁと思います。

 

カテゴリー:教育

【教育】 ありがとうハザードと情報教育

ずいぶん前から、「ありがとうハザード」という浅はかな行為が蔓延していますね。割り込むための免罪符として使う人もいます。「ありがとう」と言えば、他人を危険にさらしてもよいのでしょうか。

ありがとうハザードは法律的には違法ではないらしいので、浅はかな行為だと言ったら怒る人がたくさんいそうです。

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私は、自分が譲ったときにありがとうハザードをされると譲ったことを後悔します。なぜなら、ありがとうハザードをするということは、その運転手には自分が出す情報の意味を考える力が欠如していると捉えるからです。経験的には、ありがとうハザードを出す人は、出さない人と比べると、他者に対する情報提供が下手であるという印象を持っています。たとえば、突如スピードを落として急にウィンカーを出して後続車に回避行動をさせるなど。

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話が飛びますが、ハザードランプのスイッチを、運転中に押しやすい位置にレイアウトするデザイナーもペケだと思います。

現在の私の車は、A/Cスイッチのすぐ下、内気循環と外気取り入れの切り替えスイッチの上にあり、ブラインドタッチした場合の手触りと形状が似ているので、たま~に間違えて、ハザードを点滅させて回りの人に迷惑をかけてしまいますが、私のとは異なる車種でも「なぜ、いまハザード?」と不思議になるような出し方をする人がいますが、これも多分スイッチの押し間違えでしょう。

この場合、間違えたユーザーが悪いのではなく、このようなヒューマンエラーを想定していないデザインがダメです。以前乗っていた車のひとつは、ハンドルの輪っかの中に手を突っ込んでグイっと押さないとスイッチが入らなかったので、気楽にほいっと押せるものではありませんでした。だから他のスイッチと間違えることはありませんでした。

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話を本題に戻すと、道路交通法に示されたハザードランプの使い方を見れば、自分の状況を公的に伝えることが目的であることが分かります。

一方、譲ってもらったときの挨拶は、当事者間だけで成り立てば十分です。

「後続の多くの車の運転者たちが、自分のハザード点灯をどのように解釈するだろうか?」と考えれば、ありがとうハザードの無意味さとリスクは簡単に理解できると思います。

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このような、公的な情報提供手段と当事者個人間の情報交換手段の混同は、SNSにおいても見られます。今の情報教育は、コンピュータやインターネットの中の情報に閉ざしていますが、上記のようなことも情報教育における重要な視点です。

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脇道から前に割り込んできた車が、ハザードランプのスイッチを押す操作のために目の前で蛇行したり、減速したりするのは、本当に危ないし迷惑です。前に入ったら、まずは、流れにスムーズに乗ることを最優先させるのが正しいお礼の仕方です。直接譲ってくれた車は一台だけですが、それに続く車たちも速度を落とすとか、数秒待つなどのサービスをしてくれているわけですから、感謝すべき相手は直接譲ってくれた一台だけではありません。自分にとってありがたい状況を生み出してくれた全員への感謝が必要であり、そのためにこそ、場を乱さないこと、つまり、運転中であれば流れを素早く元の状態に戻すために自分が尽力することを優先させるのがマナーであるはずです。

だから、ありがとうハザードは短絡的かつ不十分なお礼です。

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ついでに言うと、譲ったときなどに会釈をする運転手も怖いです。会釈するとき視線が下に行きます。これは前方不注意の状態に陥っていることを意味します。狭い道でのすれ違い時に会釈する人には、車をすられるのではないかと怖くてしょうがないです。会釈も無用です。

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場全体としての安全を図るためには、運転手が体を動かして行う感謝の行為は無用だと考えるのがよいと思います。

カテゴリー:教育

【教育】 日本人が書いた英文が載る英語教科書への違和感

高校生の娘の英文読解の予習を手伝っていたときのことです。

大変に読みにくい英文である反面、日本語らしい日本語に訳すのとてもが楽で、違和感がありました。「もしかしたら、この英文は、日本人が書いたものではないかな?」と娘に聞いたらその通りで、最初から読んでみたら、冒頭にアメリカに留学した日本人が書いたことが示されていました。

大人になってから英語圏での生活を始めた日本人が書いた英文だったことから、発想や展開が日本人的で、英文としては読みにくい一方で日本語化は容易だったのだろうと思います。面白い現象でした。

この教科書には、その他にも日本人が書いたと思われる英文が出ています。いずれも違和感がある英文です。教科書にありがちな個人の生き方とそれがもたらす人生訓のような文章なので、その内容を学ぶこと自体は教育的であるでしょう。しかし、英語の学習に適しているとは思えません。この英文を読めるようになっても、応用がきかないでしょう。

このような文章を選んだ背景には著作権の絡みがあったのかもしれませんが、英語は英語として学ばないと文化を理解できません。言うまでもなく、言語の理解は文化の理解です。

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追記

大学院時代に、専門的な文書の和文英訳の依頼を受けたことが何度かあります。あるときはイギリスで開催される展覧会で使う資料の翻訳だったので、一通り英訳した後で友人のイギリス人(ケンブリッジ大学卒)に添削してもらいました。自分でも不自然な箇所が多いことは承知の上でしたが、案の定、友人から返された原稿には山ほど朱が入れられていたので「あぁ、まだまだダメだなぁ」とぼやいたら、友人は「そんなことないよ、(書いてあることが)全部分かったよ」と答えました。この言葉にさらに落ち込む私を見て彼が言ったのは「(私の翻訳は)英語になっている。日本人が書いた英語は英語になっていないことが多いよ」。最初の言葉は、友人としては褒め言葉だったみたいです。

そして、友人の添削は「そうそう、英語でこう表現したかったんだ!」と嬉しくなる指摘ばかりで、最終的に英語の書物で目にするような自然な英文になりました。こういうプロセスによって、英語を使う人たちの考え方をより深く知ることができたと思います。

だからこそ、上に書いたような和製英語を英語の教材にするのはよろしくないと思うわけです。

 

カテゴリー:教育

【CADとかBIMとか】 結局JW_CADの図面は、、

25年くらい前はJW_CADをよく使っていた。個人的に入手でき、かつ、当時のPCの性能で満足に動くのはJW_CADしかなかったので、CADを使いたい場合の唯一の選択肢だった。

その後、3D-CAD、BIM、とCADソフトの推移とともに、私のメインのCADも変遷し、もう15年以上、JW_CAD を含めた製図専用CADをしっかりと使うことはなない。

久しぶりにJW_CADで他の人が描いた図面を扱う必要が生じて、あらためて嘆息したのは、JW_CAD は印刷時の表現しか考えない使い方がほとんどだということである。簡単に言えば、線の太さを色分けしただけの図面で、レイヤーの意味を捉えた使い方がなされているケースが少ないのである。

もちろんJW_CADは製図板と製図道具をソフトウェアとして実現したのにすぎないから、図面の見た目(=印刷時の表現)だけを考えることを問題視する必要はない。レイヤーをどう扱おうと、同じ色の線は同じ太さで印刷されるから、印刷結果だけが目的であれば十分だが、そればかり考えて作られたデータは、データベースとして美しくないし、BIM に持ち込んで処理することを考えると途方に暮れる。

BIMソフトを使ったり教えたりするようになった今、JW_CADで製図ではなく設計を教えようとしていた25年前ごろの私は相当に無謀だったと思う。当時は、レイヤーの意味づけを強く強調していた。

今回、久しぶりにほんのちょっとだけJW_CADを使ったが、ズーミングやスナップのハンドリングの良さは相変わらずで、製図CADとしての完成度の高さに、あらためて感心した。

JW_CADは、CADの系統樹のひとつの枝の先端に実った美味しい果実であり、BIMはこれとは違う枝に実る。BIMの枝はまだまだ伸びていくが、JW_CADの枝はもう伸びることはないだろう。

カテゴリー:CADとかBIMとか, 教育
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