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Archive for the ‘教育’ Category

【教育】逸脱できない学生たち

大学教員を辞した後、20年ほど専門学校でも非常勤講師を務めています。いわゆる学力とは直結しない分野を教えているので大学生と専門学校生の能力差は思ったほど大きくないというのが、5,6年前までの印象でした。

一方で世紀の極悪番組であった(と私は思っている)金八先生以来、児童や生徒のお友達に成り下がる教員たちが激増して運悪くそういう教員に当たったであろう学生が大学でも専門学校でも増えていて、とても困ったことだと思っていました。ところがこの数年は教員はお友達だと勘違いしているような学生は減少しているような気がします。それはそれでありがたいですが、反面、教員の言うことを四角四面に受け入れるだけの学生が多数派を占めるようになっています。

私の分野は「上手に逸脱すること」が非常に重要なのですが、彼らは「逸脱しないこと」に対して命がけです。上手な逸脱へ誘導するために設けている課題中の自由度は、彼らにとっては困惑の要因にしかならないようです。たとえば、課題中の自由度に気づく学生が少なくなかった頃は「~~してもいいですか?」という形の質問の方が多かったですが、数年前からは「~~しなければいけませんか?」という形の質問ばかりです。(そもそも「してよいか、だめか」というような質問をすること自体が困ったことですが、良くも悪くもほぼ全員が「いい子ちゃん」になり果てている世代なので諦めています。)

私が担当しているのはCADの授業で、5,6年前からYouTubeで公開した自作動画を手本として練習する形に変えました。動画は操作の手順や考え方を示しているだけなので、結果としてどんな姿形になってもかまわないのですが、学生たちは動画の中の形や寸法を必死で追いかけて、そのまま作ろうとします。そのようなやり方をすると手順や考え方の把握が二の次になるので、応用が利きません。「この動画で示した方法を使って、何かを作れ」という課題を提示したら、動画と全く同じものを何度でも繰り返し作るわけです。彼らの様子を見ていると、課題を誤解釈してそうしているのではなく、そうすること(逸脱しないこと)が習性になっているようです。これは彼らの能力や資質というより、小中学校、あるいは高校の教育に問題があるのではないかと疑っています。

「逸脱しない作業」はコンピュータが得意とし、現時点においてすでに人間が太刀打ちできない作業であり、さらには10~20年後にはAI技術が「ある程度上手な逸脱」を行うようになるだろうから、「逸脱できない」人間は仕事を失います。だからこそ逸脱のための自由度を設け、逸脱への誘導を試みてしているわけですが、三つ子の魂百までという通り、専門学校や大学では手遅れであろうと嘆いています。

一方で彼らが平気で逸脱するのは、提出期限のような自由度が無い対象ばかりです。トホホです。

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【教育】かけ算の順序

「一袋5個入りのリンゴを7袋買いました。全部で何個のリンゴを買いましたか。計算式と答えを書きましょう」という問いに「 7×5=35 」と答えたら先生に×を付けられたという感じの話題をインターネットで初めて見かけたのはいつだったか忘れましたが、その後もときどき同様の話題を見かけます。様々な見解があって面白いです。

その話題中で示されていた正解!は「5×7=35」でした。

かけ算では交換法則が成り立つから(※)、5×7でも7×5でも得られる数値は同じです。だから計算式はどちらでも良さそうに思えますが、「個」をつけて考えると「5(個)×7=35(個)」が正しく、「 7×5(個)=35(個) 」は間違いだとする見解があるようです。しかし、もし式中に「個」が見えない形で存在するなら、袋の数についても同様「袋」や「枚」で示して「 5(個)×7(枚)=35(個枚) 」、 「 7(袋)×5(個)=35(袋個) 」のようにしなければ中途半端ではないでしょうか、、、、。個数は無次元であり、個、枚、袋、本、匹などは単位記号ではなく助数詞です。だから単位記号と同列に扱ってはいけないし、「個枚」「袋個」という助数詞は日常世界に存在しないので、問題文を国語の観点から解釈した結果、式はどうでもよく、答において「○個」と記されていたら正解とするのが適切であると私は思います。

(※)九九を覚えるとき「交換法則」を経験的に知るはずだから、小学生は交換法則を学んでいないから「5×7」がよくて「7×5」がだめという説明はよくないと思います。

ここで、リンゴ5個入りの袋7つを手に入れるまでの時系列を想像してみました。

  1. 果物屋に行ったら、棚にリンゴ5個入りと書かれた袋が並べられていたので、それを7つ買った。
  2. 果物屋に行ったら、棚にリンゴ入りと書かれているだけで中身が見えない紙袋が並べられていた。それを7つ買って家に帰って開けてみたら、それぞれに袋にリンゴが5つずつ入っていた。

小学校の算数で時系列を気にしなければならないのは時間を使う計算だけで、それ以外の場合は時系列への配慮は無用です。無用だから考えてはいけないのではなく、無用だから自分で自由に時系列を設定すればOKです。「個」も「袋」の単位記号ではないのだから、生じた時間の順に式を立ててもよいのではないかと感じます。

  1. 「リンゴ5個入りの袋が7つ」つまり「5×7」
  2. 「袋が7つあって、1袋に5個ずつ入っている」つまり「7×5」

同様の問題を割り算で考えてみると;

  1. 35個のリンゴを7人に分けると、一人あたり何個か? → 「35(個)÷7(人)=5(個/人)」
  2. 35個のリンゴを5個ずつ袋に入れると、何人に分けられるか?  → 「35(個)÷5(個)=7(人)」
  3. 35個のリンゴを5個ずつ袋に入れるには、袋は何枚必要か?  → 「35(個)÷5(個)=7(枚)」

1の場合は「個」を単位記号であるかのように記しても成り立ちます。したがって冒頭に記した掛け算の問題は、計算値に適切な助数詞を付けて回答欄に書くように指導するのが正解であると思います。

小学生に「1個」の「個」は助数詞で「1m」の「m」は単位記号であると教えても理解しにくいだろうと思いますが、「5×7」はマルで「7×5」はバツだと指導するのは、単位記号と助数詞を明確に分け隔てて捉えていないために生じる指導者側の誤りではないかと思えてきました。

このような場合の指導について文科省の指導要領にどのように記載されているのか知りませんが、学校としては「指導要領に沿っていれば○、外れると×」が結論なのでしょう。

「7×5」はペケであることをしっかりと子供に説明し、子供が理解できるまで説明できる教員に当たった子供は大変にラッキーですが、そうでない場合(「7×5は順番が違うから×」としか言わない場合など)は算数の勉強が嫌いな子供を増やすだけではないかと思います。

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余談ですが、上に触れた時系列のことに関係しますが、小学生の算数はその子供自身の日常感覚の中で捉えられるように指導することが大切です(同じ設問であっても、一人一人の子供が頭に思い浮かべるシーンが異なるから、必然的に答に至るまでの時系列も異なります)。日常感覚と無縁の指導では、小学校の算数を包含する中学校以降の数学は自分にとって役に立たないもの、無縁なものと勘違いしてしまうでしょう。高等教育機関においても比例や分数の計算ができない学生たちが少なからず存在するのは、小学校教育の失敗であると思います。

日常感覚の例

  • アルバイトで小学生に算数を教えたことがあります。ある子は「nリットルの油が云々」という問題を、いくら説明しても解けません。ふと思って「油じゃなくてジュースで考えよう」と言ったら、あっさりと解きました。このときの問題は油でもジュースでも同じ式を立てれば解ける問題でした。その子は算数が分からなかったのではなく「油」を頭に浮かべることに手間取っていただけで、「ジュース」と言い換えたとたんに算数の思考に入って行けたのだと思います。
  • ある大学の教員から聞いた話ですが、学生に1/2+1/4レベルの計算をさせようとしたら解けないので「この程度も解けないの?」と尋ねたら、学生は胸を張って「最近使っていないので!」と答えたそうです。分数はケーキやピザを公平に分配するにおいても非常に重要だと思いますが、この学生はケーキやピザを誰かと分け合ったことがないのでしょうか。おそらくそうではなく、日常と算数のつながりの認識が育たない教育を受けてきたのでしょう(本人の勉強不足が能力不足も原因だとは思いますが、先生たちが見捨てた「できない子」の姿を見ていると、それだけを原因にしてはいけないと思う次第です)。
カテゴリー:教育

【教育】Webページのショートカットの簡単な作り方(Windows版のEdge/Chrome)

オンライン授業の課題で、Webページのショートカットを作成すると便利な箇所が出てきました。カリキュラム上はリテラシー基本操作を身につけた後で行う授業なので、「Webページのショートカットを使うと効率的、ただし方法は自分で探せ」と記すつもりでした。ところが若い世代の多くは、子供のころからインターネット検索を教えられた(つまり図書館で本を探した経験が少ないせいで)、不幸にして検索下手が多いです。念のため検索してみたところ、最も簡便な方法であるアドレスバーからドラッグ&ドロップする方法がわりと見つけにくく、よく言えば正当、悪く言えば覚える必要のない煩雑は手順の方が検索上位に出てきたので、ばかばかしさを感じながらも説明用の動画を作りました。このようなことは、教室ならちょっと実演するだけで終わるので、こういう動画を作る必要が生じるのはオンライン授業の大きなデメリットです。オンライン授業を円滑に行うためには、教える側が自分の時間を犠牲にする覚悟が必要です。(動画はWindows 10での操作です。)

Microsoft Edge

Google Chrome

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この程度のことは、わざわざ調べなくても試行錯誤すれば短時間で発見できる操作だと思いますが、残念ながら現実はそうではありません。とりあえず右クリックしてみるとか、ドラッグ&ドロップしてみるとか、そういうのはスタンリーのような大きな探検心ではなく、犬がカニを鼻先でつついてみる程度の小さな好奇心で十分できることなので、みなさん、きちんとバックアップを取った上でどんどん挑戦してみましょう。

カテゴリー:雑記, 教育

【雑記】Amazonのレビューに★1つを付ける人

Amazonなどのユーザレビューの、特に★1つのレビューは感情に任せて書かれたような役に立たないものが多いことは、多くの人に共通する見解だと思います。私も通常はそういうレビューを無視しますが、自分が関わった書籍に対する★1つは気になります。

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ずっと前から、私が共著者の一人である書籍に対して★1つがつけられています。当該レビュー者が★1つを付けた理由は「注文したのではない本が届いた」からだそうです。書籍そのものではなく書店(アマゾン直販ではない)へのクレームを書籍のレビューとして書いているわけで、レビュー自体は誰が読んでもナンセンスだと分かります。ところがレビューはこの1つだけなので、レビュー本文を読まず当該ページ上部の星の数を見ただけで判断されると、内容がだめな本だと勘違いされるかもしれません。だから、この本を扱った書店も当該レビュー者もたいへんに迷惑です。

興味本位でこのレビュー者の他のレビューを見たところ、すべてが書籍購入の際の個人的状況説明をしているだけで、レビューではありませんでした。

こういう人は「レビュー」の意味や意義を考えたことがないのでしょう。書籍の内容そのものへの客観的批判であれば、肯定的な内容でも否定的な内容でも謙虚に受け止めますが、書店の対応の悪さと本の内容の良し悪しを混同されたら困ります。

こういう人はインターネットで公開されることの意味や意義も理解していないだろうから、いつかSNSなどでひどい目に遭うかもしれませんがご愁傷様としか言えないでしょう。

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最近、私が監修した書籍(共著)に対して★1が付けられていました。

CADの練習本ですが、レビュー者によれば「教材データがない」から「とんでもない駄本」であるそうです。この人はすべてのCAD練習本には教材データが付属すべきであるという思い込みを持っているのかもしれません。この本は教材データがなければどうにもならないレベル(おおざっぱに言えば初心者レベル)の人に向けた本ではなく、そのことは明記しています。また、手順を追って練習するような本ではなく、ヒントやアイディア集でどちらかというと逆引き辞典のように使うのに適しているので、教材データは無用です。

このレビューを初めて目にしたときは監修した立場からは捨て置けなかったので、「教材データがなし=駄本」との主張にもしかしたら正当性があるかもしれないと謙虚に受け止めてみました。しかし理解できません。そこでいつものように、このレビュー者が書いた他のレビューを読んでみたら案の定でした。このレビュー者は自己承認欲求が強い人物のようで、自分が感情的に気に入れば高評価、自分が感情的に気に入らなければ★1つを付けています。

ほとんどの★1つレビューに共通する、「主観/客観」と理性的に対比しながら語る「主観」ではなく感情に支配されたレビューであり、出版社、書店、著者、読者の誰にとっても百害あって一利なしのタイプです。

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同じ本に★3つを付けた人がいます。★3つにした理由は「自分が知っていることが多かった」からという個人的事情です。特定のスキルレベルの層をターゲットとした本なので「自分が知っていることが多い」と感じる読者がいることは当然です。そのこと自体は本の評価に影響しませんが、問題はそういう個人的事情をレビューに記載することです。そして件の本は一定レベル以上の人なら「知っている/すでにやっている/使っていないが気づいている」ようなことしか書いていません。そういう企画の本だからです。逆に言えばこの本を必要とする人は一定レベルはクリアしているものの中上級レベルではないので、上記のようなレビューはレビュー者自身が「自分のレベルは大したことはない」と公言しているのと同じで、もし就職活動でこのような人が来たらお帰り願うでしょう。

このようなレビューを小学校1年の漢字練習帳にあてはめて考えると、「自分が書ける漢字ばかりだったので★1つにしました」、「何文字か忘れていたので役に立ちましたが、ほとんど自分が知っている漢字だったので★3つにしました」などと同じです。レビューにおいて必要な情報は、小学校に入ってこれから漢字を学ぼうとしている子供たちが上手く漢字を学べるように考えて作られた本かどうかを判断するための情報です。購入者の漢字レベルがどうであるかは全く意味がありません。

購入検討者はそのレビューを書いた人のレベルを知る術がないので、レビューに個人的事情を書く意義はありません。

残念ながら、この人の他のレビューでも個人的印象を★の数に影響させたものがありました。一方で、この人が客観的に記した評価や購入検討者へのアドバイスは、とても役に立つものでした。この人が客観性のある内容だけ書くようになったら、優れたレビュアーになれると思います。

(以上、大学院時代にある専門誌の書評欄を担当していた経験から。)

カテゴリー:雑記, 教育

【教育】ただ乗り教材でオンライン授業をやりたいらしい?情けない大学教員

私が非常勤を務めている2校がオンライン授業になり、先週から1校の授業が始まりました。従来からデジタル化した教材を使っていますが、それでもオンライン授業の準備は大変です。教室では学生の表情や頷きを観察しながらアドリブで行っていた部分をテキスト化するのはものすごく大変で、膨大な時間がかかります。このままでは貰っている給料(時間給)÷所要時間が最低賃金すれすれラインになりそうです。

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4月末ごろ、私がYouTubeで公開している動画を教材に使いたいと、ある大学の教員を名乗る人物が、その人物の副業らしきドメインのメールアドレスから大学の肩書きと副業の肩書きを併記したメールを送ってよこしました。

この時点ですでにアレな人だろうと感じたので、副業アドレスからの送信では本物かどうか分からないので返答不能だと突っ返したら、今度は大学のメールアドレスからメールが届きました。副業メールから送ったことに対する言い訳を、酒席での仲間内の愚痴のごとくグダグタと書き連ねていました。いかなる事情であろうと言い訳をせず「ご無礼をお許しください」と簡潔に謝罪できない人は、本気で謝るつもりがないのだと思います。ここで本当にアレな人認定しました。

副業メールから送った理由として「着任早々でコロナウィルスによって大学のメールアドレスの使い方もよく分かっていない」とかなんとか書いていましたが、副業アドレスからのメールを突っ返した半日後には大学のメールアドレスからメールを送れたわけだから、副業にかまけて大学の業務をサボっていたということをカミングアウトしただけです。

この人がアレな人であるからではなく、このようなただ乗り希望の依頼は断っています。だから以下のような返信を書きました。(原文の骨子が崩れない範囲でちょっと手を加えています。)

コロナウィルスは全人類に等しくネガティブな影響を与えていますから、個人的失態の理由としてコロナウィルスを持ち出すことは、ご自身の印象を損ねる以外の効果はありません。

さて、私がYouTubeやブログで公開するのは個人の私的学習の補助が目的であり、組織の業務で利用してもらうためではありません。知識やノウハウの提供は、一般論としてもビジネスの範疇です。

また、何事であれ、自身の有給の業務を他者のボランティア活動にただ乗りして補填するのは不誠実です。それが教員たる者としてのアイデンティティに関わる教育内容に深く影響する教材についてであれば、なおさらです。

上記からご理解いただけるように、教材としての採用であればビジネスとしてお話を伺うことはやぶさかではありませんが、貴学としての方針が不明な現状では返答不能です。

一方で、インターネット公開した以上、どこかの誰かが他の誰かに紹介することについてはすでに自分のコントロール下にはないので、学生に紹介することについて私はどうこう言える立場ではありません。しかし、もし学生に紹介するのであれば、YouTubeチャンネルではなく、動画では示せない重要事項を併記したブログを紹介していただくことを願います。

上記への返信は「youtube(ママ)サイトの使用や紹介はしない」でした。

こういう場合、学生のことを大切にする教育者であればYouTubeではなくブログを学生に紹介することを検討すると返答し、自分だけが大切な似非教育者なら図星をつかれたことにカチンと来てすべてやらないと返答する、、、と考えて、返答内容でこの人の教育者としての資質を判断するために最後の一段落を書き添えた訳です。この人は後者でした。

また、私はYouTubeではなくブログを紹介するように依頼したにもかかわらず「youtubeサイトを紹介しない」と返すのは、ブログがどういうものであるか調べもしていないということを暗に示しています。つまり私が何者であるかにも興味はないのでしょう。しかし教材には作成者のアイデンティティが色濃く表れるもので、教える立場の者であればそのことを理解しているはずです。もし、どのような人物が作成したか気にならなかったのだとしたら、教育者として欠格です。

なお、この人が使いたいと言った動画はそのソフトを教えられるだけのスキルと知識があれば、1,2日で作成できるものです。Zoomなどで自分の操作を学生たちに録画させても同様の動画ができるはずです。そのように考えない点で、大学業務に真摯に向かい合っているとは思えないのですよね。(動画への具体的な質疑であれば、内容次第では答えた可能性はあります。)

とにかく、この人、大学教員としての矜持、教育者としての謙虚さ、さらには日本語力も欠如しているのだろうと思います。そもそも大学教員になって自分が偉い人になったとでも勘違いしているのか、最初のメールは上から目線でした。そして40過ぎているのに敬語もまともに使えていません。

さらに、この人はメール本文の文頭に宛先を書いたのはいいのですが、「○○様」ではなく「○○さま」と書いていました。初めての相手へのビジネスメールでこういう書き方ができる40過ぎの大人が大学で学生を指導するという事実!

こういう人に教わる学生たちが不憫だと思う一方で、真摯に取り組みたい学生はわざわざ教員が紹介しなくてもインターネットの中で自ら発見できる良い時代だから、授業より自習に励めばよいでしょう。

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追記

上記を書いてから2ヶ月ほど過ぎました。オンライン授業の準備の過酷さはますばかりです。

準備だけではなく提出物の評価も過酷ですが、メールの授受メインのやりとりは、教室授業より学生一人一人のことがよく分かるという膨大なメリットももたらしてくれています。時間的負担が増えた分の経済的補填があれば、授業内容次第ではありますがオンライン授業はなかなか良い物だと思います。

件のYouTubeチャンネルですが、特定の時間帯(日本時間の日中)の特定の動画へのアクセスが急増しています。日常的にギブアンドテイクが成り立っているごくわずかの教員さんには「自由に使っていいよ」と伝えていますが、日本のどこかで上に書いたような愚かな教員が授業に利用しているのではないことを祈るばかりです。

カテゴリー:教育

【教育】皿上の美学、味よりビジュアル重視の料理

きれいに盛り付けられた料理の写真を見るのは嫌いではないですが、「これ、いったいどうやって食べるのだろう? 食べ終わるまで皿上の美学を保つにはいったいどのような道具を使ってどのような手順で食べればよいのだろう?」と疑問を感じるものが多いです。箸の最初のひとつつきで皿上の美学が消えたら、あとは残骸を口に運ぶ苦行が残るのみです。

真に美しい盛り付けというのは、皿上のものがなくなるまで、つまり、食べる人が突き崩し続けても最後まで美を保つものではないかと思うのです。もちろん食べる人もそういう配慮で食べていかかなければなりません。将棋崩しのように、一箸ごとに、どこをどう取ろうか、そしてそれを取った後はどうなるか、、、と考えつつ箸を進める心地よい緊張感。黒ひげ危機一発ジェンガにも似ているかもしれませんね。

「料理は盛り付けた時点で終わるのではなく、皿が空っぽになった時点で終わる」と私は考えます。

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先日、家族が図書館で借りた料理本の表紙写真を見て目が点になりました。表紙写真の料理があまりにひどいので救いを求めてページをめくってみましたが、もうあきれるばかりでした。

味には個人個人の好みがありますが、好みを持ち出して味を語る以前に以前に料理として成り立つことが前提です。

この料理本に掲載された料理の大半は、切ったときの断面の姿を視覚情報デザイン的な意味できれいに見せることしか考えておらず、写真だけで「これは絶対においしくない」と断言できるものでした。

どうしておいしくないと思ったかというと、使う複数の食材に明確な主従関係が見当たらなかったからです。

視覚情報デザイン的な発想で美しく見せるために、味のバランスではなく、断面を構成する色の面積配分で材料の配分を決めているようです。

家族が試しに作ってくれました。たしかに見た目はきれいでしたが、味の方は予想通り何だか分からない食べ物になっていました。

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この本の料理を海原雄山ははなから相手にしないでしょうが、山岡士郎がどう評価するかは知りたい気がします。

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【教育】「することができる語」の蔓延と「ら抜き言葉」撲滅運動の相関性

しばらく前に本を出版しました。

編集者とのやり取りの中で、私が可能の助動詞を使っていた箇所が、すべて「〇〇することができます」に直されていました。初校の時点でそうなっていたので、すべて可能の助動詞に書き戻しました。しかし第二校で「することができます」に変えられていたので、また可能の助動詞に書き戻しました。第三校で「することができます」になっていたのを見て、「そうか、これが現代東京語か!」と思いなおして、可能の助動詞の利用をあきらめました。

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このできごと以来、「することができる」が世の中に蔓延していることを再発見し、驚いています。

「座れる」を「座ることができる」と冗長に言い、長く書き、「行ける」ことを「行くことができる」と冗長に言い、長く書き、「食べれる」と「食べることができる」と冗長に言い、長く書き、、、これはエネルギーの無駄だし、書くために使う紙や鉛筆という資源の無駄遣いです。することができる語の利用には合理性がありません。道路案内看板の単純明快な「岡山空港」を意味不明で理解に時間がかかる「岡山桃太郎空港」と書き換えるくらいの短慮な言葉の使用です。

小中高生はすることができる語によって文字数を稼ぎ、用紙と鉛筆という資源を無駄使いすれば、あのくだらない読書感想文という宿題が少しでも楽になりますから積極的に使うでしょう。英語で「can」や「be able to」を習った後は「することができる」と訳せば「おぉ、canやbe able toの意味がちゃんと分かっているね」と日本語英語ともにあまり達者でない英語教師に認められるので、やはり積極的に使うでしょう。その子たちが大人になってもその習慣を捨てきれずにいるのかなぁ、と思ったりもします。

かくいう自分も、することができる語以外の選択肢があるにも関わらず、することができると口走ったり、書いたりして、冷や汗をかくことがしばしばあります。

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ところで、少し上の記述に突っ込みたくなった人がいるでしょう。そうです、「食べれる」は言語固定論者にいじめられる「ら抜き言葉」です。(万葉集の時代から言語固定論者が世の中の学者の多数派を占めていたら私たちは古文の学習に苦しむことはなかったはずです、、、ということは現代の言語固定論者たちは、未来に向かって対象範囲が増えゆくばかりの「古文」の負担減少のために戦っているのか? 、、、であれば、It’s all too much、なんとも素晴らしすぎるではないですか。)

ここ20年くらいの動きを思い出すと、「することができる語」の普及と「ら抜き言葉」撲滅運動の連動を感じるのです。

統計的に観察したら「ら抜き言葉」撲滅運動が可能の助動詞へのハードルをあげた結果、「することができる語」が普及したのであると数百年後の言語史家たちが両者に相関性を見いだすかもしれませんね。

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さてこの記事を書いたのは、数日前にとてもショックな出来事があったからです。とあることの待ち時間に、久しぶりに対訳版のピーナッツを読んでいました。ところが、かの谷川俊太郎の翻訳に「することができる」を見つけたのです。

ショックを受けて、原文を読み返してニュアンスをしっかりと把握しました。そしてこの場合はたしかに「することができる」が適切であると考えられました。さすがは谷川俊太郎、言葉の時代の最先端を突っ走ってきたのだと、私は一ファンとして思いたいです。

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一時は、ら抜き言葉撲滅運動家のように「することができる語」の撲滅を目指さねばならないと思ったりもしましたが、谷川俊太郎のおかげで、言葉の力を大切にしながら適切な使い分けを心がければよいと思い直しました。(「することができる語」しか使えなくなってはいけないと思います。)

言葉は変化するものだから変化に抗うこと自体に歴史的意義はありませんが、どうせなら合理的で無駄のない方向に変化してほしいと切に願います。

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そして、することができる語は、書きたくないのに一定文字数以上を要求される文章執筆に使えば貴重な小中学生の時間を奪う読書感想文の負担を軽減できるメリットはあるものの、日本の津々浦々でみんなが「することができる」とワープロ入力していたら、膨大な時間のロス、膨大な印刷費(紙代、インク代、トナー代)のロスであり、読む人にとっても時間と脳みその無駄遣いであるから、全く合理的な方向への変化ではないです。

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【教育】2020年から小学校でプログラミング教育が必須になるそうだが、、

2020年から小学校でプログラミング教育が必須になるそうです。

これについては、小学校を中心としたプログラミング教育ポータルが公開されています。充実した、面白いサイトです。

私自身のプログラミング学習経験から言えば、将来の職業や生活と無縁であったとしてもプログラミング学習はとても役に立つと思うので、大きく期待します。

一方で、指導する側がプログラミング学習の向こうにあるものをしっかり見ていないと、現在の情報教育のように「Wordで文字は打てるが文章を書けない人」、「PowerPointでパタパタめくり絵を作れるが、プレゼンできない人」、要するに特定ソフトウェアのオペレータ(それも低レベルのオペレータ)を量産するだけに終わります。子供たちの貴重な時間を無にしないように、指導する側は、ぜひともがんばってください。

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【教育】応用する力

ここ10年くらい、良く言えば「良い子」である学生さんの割合が増えてきました。「良い子」の意味は「言うことを良く聞く」という意味です。

ところが、「言うことを良く聞く」半面、「言ってないこと」に対しては情けなくなるような状況です。「言ったことはできるが、それを応用して言ってないことをすることができない」学生の割合も増加しています。次に記すのは、そのひとつの事例です。

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YouTubeで、BIMソフトの学習用動画を配信しています。

ある動画では、お面(マスク)の作成と目や口の形や位置の変更をネタとして、「扁平なドーム形状の作成法と、開口部作成と編集の方法」を示しています。自由な形状づくりにおいて、この操作手順と考え方は応用範囲が広いです。

ところがこれを練習してくれた建築を学ぶ若い人から「わりと簡単にできたが、今後、自分はお面を作ることはないので、将来、この方法を使うことはないだろう」という内容のコメントがあって呆然としました。(@_@)

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配信している動画はBIMソフトの使い方の事例なので、当然ながらある特定の形状や特定の寸法を用いて説明しています。用いるツールや操作の手順が身につけば十分だから、形状や寸法は好きにやってもらいたいと私は思っています。だから、建築設計分野の人が一生作ることがないであろう「お面」をネタにしたりしているわけです、いや正直に言えば、応用力の欠如は事前に分かっていたので、建築設計としてはありえない「お面」をネタにすることで、逆に建築的な形状への応用に向かえるのではないかと仄かな期待を抱いたのでした。

もちろんたった1人からのコメントなので、この動画を見た人すべてに敷衍できることではありません。とにかく、あのような内容のコメントをもらったという事実が強烈すぎました。

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【教育】高卒なのにmをmmに換算できない

高校を卒業した学生を受け入れる学校において、m(メートル)をmm(ミリメートル)に換算できない学生が多いことに毎年のように驚かされています。

1m=1000mmであることを利用して換算すればよい。(要するに1000倍すればよい。)

と言っても分からない学生が少なからずいます。

高卒者に対してmからmmへの換算法を説明しなければならないという点でトホホなんですが、こういう学生は抽象的把握ができないので、たとえば「5m」は「5000mm」だということを説明した結果「5m=5000mm」を覚えられたとしても、彼らの頭に残るのは「5m=5000mm」というたった1つの事実だけなので、応用できません。たとえば「5m=5000mm」という事実を知っていても、「10m」をmm単位に換算できないのです。(これが出来ない学生は、単位にかぎらず他の多くのことができません。)

そこで、次のように教えます。

「ゼロを3つ付けろ!」

でも「cm」だとお手上げになるので困ります。sigh……

 

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