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Archive for the ‘教育’ Category

【教育】皿上の美学、味よりビジュアル重視の料理

きれいに盛り付けられた料理の写真を見るのは嫌いではないですが、「これ、いったいどうやって食べるのだろう? 食べ終わるまで皿上の美学を保つにはいったいどのような道具を使ってどのような手順で食べればよいのだろう?」と疑問を感じるものが少なくないです。箸の最初のひとつつきで皿上の美学が消えたら、あとは残骸を口に運ぶ苦行が残るのみです。

真に美しい盛り付けというのは、皿上のものがなくなるまで、つまり、食べる人が突き崩し続けても最後まで美を保つものではないかと思うのです。もちろん食べる人もそういう配慮で食べていかかなければなりません。将棋崩しのように、一箸ごとに、どこをどう取ろうか、そしてそれを取った後はどうなるか、、、と考えつつ箸を進める心地よい緊張感。

「料理は盛り付けた時点で終わるのではなく、皿が空っぽになった時点で終わる」と私は考えます。

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さて、家族が図書館で借りた料理本の表紙写真を見て、目が点になりました。表紙写真の料理があまりにひどいので、救いを求めてページをめくってみましたが、もうあきれるばかりでした。

味には個人個人の好みがありますが、好みを持ち出して味を語る以前に以前に、料理として成り立つことが前提です。

この料理本に掲載された料理の大半は、切ったときの断面の姿を視覚情報デザイン的な意味できれいに見せることしか考えておらず、写真だけで「これは絶対においしくない」と断言できるものでした。

どうしておいしくないと思ったかというと、使う複数の食材に明確な主従関係が見当たらなかったからです。

視覚情報デザイン的な発想で美しく見せるために、味のバランスではなく、断面を構成する色の面積配分で、材料の配分を決めているようです。

家族が試しに作ってくれました。たしかに見た目はきれいでしたが、味の方は予想通り何だか分からない食べ物になっていました。

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この本の料理を、海原雄山ははなから相手にしないでしょうが、山岡士郎がどう評価するかは知りたい気がします。

 

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【教育】「することができる語」の蔓延と「ら抜き言葉」撲滅運動の相関性

しばらく前に本を出版しました。

編集者とのやり取りの中で、私が可能の助動詞を使っていた箇所が、すべて「〇〇することができます」に直されていました。初校の時点でそうなっていたので、すべて可能の助動詞に書き戻しました。しかし第二校で「することができます」に変えられていたので、また可能の助動詞に書き戻しました。第三校で「することができます」になっていたのを見て、「そうか、これが現代東京語か!」と思いなおして、可能の助動詞の利用をあきらめました。

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このできごと以来、「することができる」が世の中に蔓延していることを再発見し、驚いています。

「座れる」を「座ることができる」と冗長に言い、長く書き、「行ける」ことを「行くことができる」と冗長に言い、長く書き、「食べれる」と「食べることができる」と冗長に言い、長く書き、、、これはエネルギーの無駄だし、書くために使う紙や鉛筆という資源の無駄遣いです。することができる語の利用には、合理性がありません。道路案内看板の「岡山空港」と「岡山桃太郎空港」と書き換えるくらいの短慮な言葉の使用です。

小中高生はすることができる語によって文字数を稼ぎ、用紙と鉛筆という資源を無駄使いすれば、あのくだらない読書感想文という宿題が少しでも楽になりますから積極的に使うでしょう。英語で「can」を習った後は、「することができる」と訳せば「おぉ、canの意味がちゃんと分かっているね」と日本語のあまりできない英語教師に認められるので、やはり積極的に使うでしょう。その子たちが大人になってもその習慣を捨てきれずにいるのかなぁ、と思ったりもします。

かくいう自分も、することができる語以外の選択肢があるにも関わらず、することができると口走ったり、書いたりして、冷や汗をかくことがしばしばあります。

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ところで、少し上の記述に突っ込みたくなった人がいるでしょう。そうです、「食べれる」は言語固定論者にいじめられる「ら抜き言葉」です。(万葉集の時代から言語固定論者が世の中の学者の多数派を占めていたら私たちは古文の学習に苦しむことはなかったはずです、、、ということは現代の言語固定論者たちは、今後対象範囲が増えゆくばかりの「古文」の負担減少のために戦っているのか? 、、、であれば、It’s all too much、なんとも素晴らしすぎるではないですか。)

偶然の作用でしょうけれど、「することができる語」の普及と「ら抜き言葉」撲滅運動が連動しているような気がするのです。

統計的に観察したら、「ら抜き言葉」撲滅運動が可能の助動詞へのハードルをあげた結果「することができる語」が普及したのであると数百年後の言語史家たちが両者に相関性を見いだすかもしれませんね。

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さてこの記事を書いたのは、数日前にとてもショックな出来事があったからです。とあることの待ち時間に、久しぶりに対訳版のピーナッツを読んでいました。ところが、かの谷川俊太郎の翻訳に「することができる」を見つけたのです。

ショックを受けて、原文を読み返してニュアンスをしっかりと把握しました。そしてこの場合はたしかに「することができる」が適切であると考えられました。さすがは谷川俊太郎、言葉の時代の最先端を突っ走ってきたのだと、私は一ファンとして思いたいです。

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一時は、ら抜き言葉の撲滅運動家のように「することができる語」の撲滅を目指さねばならないと思ったりもしましたが、谷川俊太郎のおかげで、言葉の力を大切にしながら、適切な使い分けを心がければよいと思い直しました。(「することができる語」しか使えなくなってはいけないと思います。)

言葉は変化するものだから変化に抗うこと自体に歴史的意義はありませんが、どうせなら合理的な方向に変化してほしいと切に願います。

 

 

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【教育】2020年から小学校でプログラミング教育が必須になるそうだが、、

2020年から小学校でプログラミング教育が必須になるそうです。

これについては、小学校を中心としたプログラミング教育ポータルが公開されています。充実した、面白いサイトです。

私自身のプログラミング学習経験から言えば、将来の職業や生活と無縁であったとしてもプログラミング学習はとても役に立つと思うので、大きく期待します。

一方で、指導する側がプログラミング学習の向こうにあるものをしっかり見ていないと、現在の情報教育のように「Wordで文字は打てるが文章を書けない人」、「PowerPointでパタパタめくり絵を作れるが、プレゼンできない人」、要するに特定ソフトウェアのオペレータ(それも低レベルのオペレータ)を量産するだけに終わります。子供たちの貴重な時間を無にしないように、指導する側は、ぜひともがんばってください。

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【教育】応用する力

ここ10年くらい、良く言えば「良い子」である学生さんの割合が増えてきました。「良い子」の意味は「言うことを良く聞く」という意味です。

ところが、「言うことを良く聞く」半面、「言ってないこと」に対しては情けなくなるような状況です。「言ったことはできるが、それを応用して言ってないことをすることができない」学生の割合も増加しています。次に記すのは、そのひとつの事例です。

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YouTubeで、BIMソフトの学習用動画を配信しています。

ある動画では、お面(マスク)の作成と目や口の形や位置の変更をネタとして、「扁平なドーム形状の作成法と、開口部作成と編集の方法」を示しています。建築設計において、この操作手順と考え方は応用範囲が広いです。

ところがこれを練習してくれた建築を学ぶ若い人から「わりと簡単にできたが、今後、自分はお面を作ることはないので、将来、この方法を使うことはないだろう」という内容のコメントがあって呆然としました。(@_@)

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配信している動画はBIMソフトの使い方の事例なので、当然ながら、ある特定の形状や特定の寸法を用いて説明しています。用いるツールや操作の手順が身につけば十分だから、形状や寸法は好きにやってもらいたいと私は思っています。だから、建築設計分野の人は一生作ることがないであろう「お面」をネタにしたりしているわけです、いや、正直に言えば、応用力の欠如は事前に分かっていたので、建築設計としてはありえない「お面」をネタにすることで、逆に建築的な形状への応用に向かえるのではないかと仄かな期待を抱いたのでした。

もちろんたった1人からのコメントなので、この動画を見た人すべてに敷衍できることではありません。とにかく、あのような内容のコメントをもらったという事実が強烈すぎました。

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【教育】高卒なのにmをmmに換算できない

高校を卒業した学生を受け入れる学校において、m(メートル)をmm(ミリメートル)に換算できない学生が多いことに毎年のように驚かされています。

1m=1000mmであることを利用して換算すればよい。(要するに1000倍すればよい。)

と言っても分からない学生が少なからずいます。

高卒者に対してmからmmへの換算法を説明しなければならないという点でトホホなんですが、こういう学生は抽象的把握ができないので、たとえば「5m」は「5000mm」だということを説明した結果「5m=5000mm」を覚えられたとしても、彼らの頭に残るのは「5m=5000mm」というたった1つの事実だけなので、応用できません。たとえば「5m=5000mm」という事実を知っていても、「10m」をmm単位に換算できないのです。(これが出来ない学生は、単位にかぎらず他の多くのことができません。)

そこで、次のように教えます。

「ゼロを3つ付けろ!」

でも「cm」だとお手上げになるので困ります。sigh……

 

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【教育】 情報教育についての小ネタ

まだパソコンが普及しきっていない頃の話ですが、先輩(建築分野)がぼやいていました。以下のような内容です。

卒業したゼミ生が研究室を訪れて「先生のゼミに入ったおかげでワープロを覚えたことが先生に教わったことの中で最もとても役立っています」と感謝の辞を述べたのだけれど、私はいったい何を指導していたのだろうなぁと思った。

この頃はワープロや表計算を使えることが特殊技能であった時期で、教員の中にもパソコンが使えない人、食わず嫌いする人がたくさんいて、「卒業設計をCADでやるのはけしからん」という意味不明の主張がまかり通ったする摩訶不思議な時代でした。

いずれにしても、先輩がぼやいたような言葉は、卒業研究指導を担当した者としては嬉しくないセリフです。

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さて、今年も某大学1年生の情報リテラシーの授業が終わりました。

例年通り最後にまとめや感想を書いてもらいましたが、毎年のように「高校まででは教わらなかったCtrl+Cなどのショートカットがとても便利で、役に立った」、あるいは「授業中にタイピング練習をさせてもらえて、入力が楽になった」ということを書く学生が少なからずいます。

そして今年は「Excelで平均値を求めたり、グラフを作れたりすることを知ってびっくりした」と書いた学生がいて、私がびっくりしました。

こういう文言を目にする度に「高校卒業までに学生たちは情報科目の授業で何を学んできたのだろう?」と考えてしまうわけです。

そして、高校までの先生方に対して申し訳なく思うけれど、ほとんどの学生が、特定ソフトのある程度の操作スキルを身につけていたとしても、ほとんど何も学んでいないと言わざるを得ないのですよね。

他の記事にも書いたけれど、ソフトの表面をなぞるだけの情報教育は有害です。

また現在においてはマウスとキーボードという拷問器具が標準的な入力装置となっています。やむをえないことですが、情報教育においては最初に教えるべきです。必要な道具の扱いを教えずして、その道具を用いる学習が満足にできるはずがありません。これはお習字やお絵かきで筆の持ち方を教えるのと同じことです。私が授業でタイピング練習をさせなければならないのは、高校までの情報教育の指導者の不見識が原因です。(もちろんすべての学校ではありません。幸いと我が子たちの小中高は、授業でタイピング練習をさせています。)

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話が飛びますが、私の授業では様々な制約から、Microsoft Officeを使います。Microsoft OfficeにSmartArtが搭載されてからは、これを積極的に使うように指導しています。学生たちにとても喜ばれます。

情報リテラシーというような名称の科目において、Microsoft Officeというソフトを教えるのであれば、SmartArtを教えないのは異常事態です。というのは、SmartArtを使うことによって、自分自身の思考を含めた情報の整理が上達するからです。

 

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【教育】 大学の情報教育

とある大学の1年生前期の情報教育のシラバスを見る機会がありました。そして愕然としました。愕然としたポイントは主に下記の3つです。

  1. 150名程度1クラスで、PC教室ではない教室で、1人の教員が担当
  2. 学生は個人のPCを持参することが必須

私自身が非常勤講師として、ある大学で1年生前期の情報教育を担当しています。だからこそ愕然としました。

1. 150名程度1クラスで、PC教室ではない教室で、1人の教員が担当

この大学は60分授業なので、もし演習授業であったとすると教員1名が学生1人当たりに避ける時間は24秒(=60×60÷150)であることから、すべての学生に均等に個別指導を行うことは不可能です。これが理由かどうか分かりませんが、基本的には講義だそうです。

2. 学生は個人のPCを持参することが必須

1の状況から言えばPCは不要であり、講義として学んだ内容を学生が自由に使える大学のPCや自宅のPCで復習すればOKであるはずですが、なぜかノートPCを持参することが要求されています。一般教室で150人分の電源を準備できるとは思えません。案の定、大学生協が扱っている推奨PCはバッテリー駆動時間が10時間以上のタイプです。年式の古いPCを持っていて、それを使おうとする学生はバッテリーが60分も保たないでしょう。バッテリー切れは60分持続するバッテリーを持っていない学生個人の責任になるのでしょうか?

上記に加えて教える立場として最も驚いたのが、全15回中10回は、スムーズに進めば5分もかからないような内容が1コマ分の内容として示されていたことです。

その内容は入学時のガイダンスで終わらせるべき内容、たとえば大学メールアドレスの設定とかクラウドの使い方とかなど、事務的な手続きの説明のようです。「情報教育」と呼べるものではありません。

そして成績評価においては「全出席を前提とする」そうなので、大学入学までに十分なスキルを身につけた学生にとっては無駄なことに拘束される拷問の時間です。ノートPCで手元が隠されて教卓からは何も見えませんから、ぜひとも内職に励んで欲しいです。もしそれでも単位がもらえるのであれば、学生にとっては美味しい話かもしれません。

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上記とは異なる大学のシラバスには、大学のPCを使うので個人的に所有する義務はないというようなことが書かれていました。

私も自分の授業については「大学の教室で作業可能なので、この授業のためだけにPCを所有する必要はない」という意味合いのことをシラバスに書いています。ひとつの理由は、デザイン系の学生を対象としているので学生たちが今後進む専門によって状況が異なり、必要となる機器やソフトも異なるので、1年のときに焦って買うと、2,3年次に買い換えの必要が生じることです。もう1つの理由は下記です。

ここ数年、入学時の学生のPC所有率が低下してきています。原因は誰でも容易に想像できる「スマートフォンの普及」です。

冒頭の大学の説明では、レポート作成やプレゼンでWord, Excel, PowerPointを使うからPCが必要らしいのですが、Word, Excel, PowerPoint はとくに凝らないかぎりはスマートフォン版で十分です。30年前のワープロ専用機やPC-9801の松や一太郎などのワープロソフトやLotus 1-2-3などの表計算ソフト、あるいはMicrosoft Windows の出始めのころのワープロや表計算ソフトで学位論文を書けました。今のスマートフォン版のオフィスは、そのころよりずっと機能的にも充実しています。だからスマートフォン版ではダメという理由はないはずです。

スマートフォン版の問題を強いてあげれば、キーボードがないことと、画面が小さいことがありますが、Bluetoothのキーボードが使えるし、画面の小ささも目の良い若者にはそれほど障害にはならないようです。機種によってはHDMIケーブルや無線でTVに画面を表示できるので問題の解消は容易です。それなのになぜ「個人のPC」を持参して授業を受ける必要があるのでしょう? 私には理解できません。

ある限られた時期においては情報教育とPCは切っても切れない関係にありましたが、スマートフォンが普及した現在においては、情報教育とPCは切り離せます。そして人文系科目のレポートや調査分析程度であれば、スマートフォン版のWord, Excelで事足ります。

要するに、メール設定、クラウド設定、Word, Excel, PowerPointの使い方を学ぶときにPCは必須ではないということです。

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私は、教育機関における情報教育が特定ソフトや特定機器の扱いを教える場になってはいけないという考えで、状況教育に携わってきました(理想であって実現は困難です)。

情報機器の操作は情報教育において必須ではありません。教授すべき情報機器を操るための概念の修得だから、そのような内容を主体とする授業であれば150人対象の「講義」は成り立ちます。ただしその場合、「演習」ではないので学生たちが自分のPCを持参する必要はありません。

さらに言えば、情報機器の操作(特定ソフト、特定機器の扱い)はメーカーのインストラクターや、Word, Excel 等の民間資格保持者あるいは上位学年をTAとして採用して、入学ガイダンスの一部として時間を充当すれば十分です。

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さて、他の記事に記しまていますが、情報教育の演習授業から特定の情報機器やソフトの操作を切り離すことは現状では困難です。

だから、大切なのは指導者が明確な切り分け意識を持っているかどうかです。

知識やスキルが一様で無い学生たちを十把一絡げに扱うために何をどうすべきか考えると、どのような授業内容にすれば良いか見えてくるはずです。言うは易く行うは難しで、私も毎年苦慮しますが、少なくとも全員がズブの素人であると見做したような授業はペケだと思います。

 

 

 

 

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