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【雑記】Amazon Music Primecの仕様変更に関して考えたこと

昨日からAmazon Music Primeの仕様が変更されて、あちこちで「改悪だ」「いや改悪ではない」と話題になっています。

私はAmazon Music Primeで音楽を聴かない日は皆無に近いですが、昨日朝、某所に向かう車中でいつものようにEcho Autoに「プレイリストの〇〇をかけて」と話しかけたらいつもと違ってプレイリストに入れていない曲が流れるばかりして変だなと思っていたところ、帰宅後に仕様変更のニュースを知りました。

今回の仕様変更が「改悪」であるかどうかは個人個人の受け取り方によるのは当然ですが、聴きたい曲を選んで聴く私の聴き方から言えば確かに第一印象は「改悪」でした。「これを聴こう!」と曲を選んで再生すると違う曲が流れだし、いつまで経ってもその時に聴きたい曲を聴けません。そうこうする内に「この曲を聴きたい」と感じた時間も気持ちも流れ去ります。風呂に入りたいときに入れなかった学生時代の銭湯通いみたいです。銭湯なら諦めもつきますが、Amazon Music Primeが仕様変更によって「ユーザの意思や気持ちを無視し、人が生涯にもつ時間という有限の資源を損ねる」点は全く受け入れられません。この点では「改悪」以外の何物でもありません。

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私の音楽生活は、FMラジオのエアチェックから始まり、レコード、CDと変化してきました。エアチェックはFMファンの番組表で聴きたい曲をマークしておいて、ラジオにつないだテープレコーダーのポーズボタンを押してから録音ボタンを押して待機し、番組を聴きながらその曲がかけられる直前にポーズボタンを押して録音開始、終わった瞬間にポーズボダンを押して停止し、、、、を繰り返しながら行っていたわけですが、「とくに興味のない曲が流れる中で目当ての曲を発見して聴く」というスタイルは、仕様変更後のAmazon Music Primeに似ているかもしれないと思います。「特に興味がない(と思っていたから)聞き流していた曲群の中から、興味をひく曲を発掘する」という可能性がある点でもエアチェックとAmazon Music Primeは似ています(昨日の今日なのでまだ一曲も発掘できていませんが)。

かつて月々の小遣いが増えて、数か月に1枚のレコードを買える程度になったころは、興味を引く曲が多いアルバムやアーティストのレコードを購入していました。Amazon Music Primeでも同じことが可能です。金銭的に余裕ができた後は、FMラジオで事前のチェックもなしに毎月のように数枚単位でCDを購入していました(だから、はずれ=気に入らなかったアルバムも少なくなかったです)。

Amazon Music Primeのおかげで発見し、購入しようかと思ったアルバムはたくさんあります。しかし旧仕様ではアルバムを購入しなくても聴けていたので、購入に至ったものはありません。購入しなかった理由はAmazon Prime会員である状態を維持していれば聴けたからです。聴けなくなったから泣き寝入りしなければならないかと言うと、個別に買ったりUnlimitedに加入するという昔と同じ「買う」という手段があります。要するに、今回の仕様変更はある意味で私を昔の音楽生活に引き戻しただけだと考えることも可能であり、その思考の下には改悪であるとは言い切れません。

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今回のAmazon Music Primeの仕様変更によって、FMラジオのエアチェック→レコード→CD→サブスクリプションと音楽の聴き方の変化に伴う私の対音楽意識の変化にあらためて気づきました。

エアチェック時代はその時その瞬間を逃したら、その曲は永久に聴けないかもしれないという緊張と恐れがありました。額に汗しながらポーズボタンを押していました。そして劣化が早い磁気テープの品質維持にはそれなりのエネルギーを使いました。また、磁化していないハサミと音楽テープ専用のテープで切り張りして曲順を自分なりに整理したりしていましたが、これは絶対に失敗が許されない手に汗握る作業でした(もちろん手に汗握るとテープが湿気でビヨビヨになるので、手に汗握らず手に汗握る作業を行っていたわけです)。

レコード時代に入ると、何度でも繰り返して聴けるようになったわけですが、レコード盤を傷つけてはいけないので、緊張と恐れは「音楽を聴く」ではなく「レコード盤を傷つけてはいけない」という意識の中にありました。音楽を聴く行為とそれを実現する機器を扱う行為が完全に一体化し、一種の様式美を作り上げていました。

このころまでは、音楽(というよりそれを録音したメディア)は耐久消費財でした。

CD時代になってからは上記のような緊張や恐れは消え、うっかり聞き逃しても直ちに元の位置に戻れる、多少傷ついても問題ない、という気楽さが出現しました。PCにCDドライブが標準搭載されるようになってからはCDそのものバックアップができ、PCの中に音声ファイルとして保管もできます。こうして「音楽を聴く行為」と「その行為を実現する機器やメディア」との関係が断ち切られ始めました。毎月数枚単位でCDを買っていた時期があると上述しましたが、それを心理的な意味で可能にしたのは、音楽と機器やメディアとの関係の断絶であったかもしれません。

サブスクリプション時代に入ると、デバイスさえあれば何のしがらみもなく音楽を聴けるようになりました。音楽が消耗品になったというか、音楽を聴く時間を消費するようになったというか、とにかく消耗とか消費という言葉を音楽を聴くことに対して適用できるような感じです。そして家の中にはデバイスがたくさん存在します。持ち歩けるデバイスも複数あります。音楽と機器やメディアは完全に分離したと言えます。音楽を聴く行為にも、機器やメディアを扱う行為の中にも、かつてのような緊張や恐れは微塵もありません。弛緩しきった状態で、のほほんと音楽を聴き始められます。今回の出来事によって「(自分は)音楽(という制作物)に対してものすごく不遜な態度に陥っていたなぁ」と感じさせられました。そして、そのような心持ちで「では、このアルバムを買おう!」と思う楽曲は一握りであることにも気づきました。結局のところ、私自身が多くの曲を刹那的に、そして雑に扱っていたということです。ここで作曲者とか作詞家とか演奏家とかアレンジャーとか音楽作成に携わった人への「リスペクト」とか、音楽とは刹那的な芸術であるかなどという議題を持ち出して論議を進める楽しみ方もあるのでしょうが、今の私には無用な思考なのでここで打ち止め。

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家で音楽を聴くときは、上述のように自分の音楽に対する態度への反省を求められた気もするし、仕様変更へのAmazonからの説明に対しても一理あるかなと思わないではないから、私は「改悪だ」と言い切れない気がしています。しかし私は運転中にEcho Autoを利用しているので、音声入力という安全性の高い制御方法によって好みの音楽によりストレスを軽減できるという「安全運転にとって非常に重要な要素」が商業的な(?)理由によって奪われたことは「大改悪である」と言わざるを得ません。

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ところで我が家で音楽再生に使っているLinuxマシン上のブラウザで再生すれば、作成済の再生リストが以前のように聴けています(シャッフルされるがプレイリスト内の曲だけが再生される、Windowsでは試していない。毎日聴いているのに11/1の時点で仕様変更に気づかなかったのはこれが理由。思い出してみるとシャッフルボタンを押していないのにシャッフル再生されていたような気がする)。昨夜の時点ではFireHDでも大丈夫でした。今後もこのままであればよいのですが、期待してはいけないのでしょうね。

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以下、2022/11/5に追記:

現時点では自作のプレイリストに入れていない曲も再生されるようになっていました。クラシック系のプレイリストは今のところ「とんでもない曲」が再生されず、かつ、旧仕様ではUnlimitedでなければ聴けなかった曲が聴けるようになっていたりで、それなりの良さ(悪くなさ)はありますが、聴きたい曲を直接聞けないという点ではBGMにしかなりません。ロック系やジャズ系の自作プレイリストは聴きたくもない曲が再生されるので、BGMにすらならない状況です。Amazon Music Primeはプライム会費の枠内で得られるサービスの一部にすぎないわけですが、「欲しいものがほとんどすぐに手に入る」Amazonの他のサービスと異なり「欲しいものがあってもすぐに手に入らない。もしかしたら人生という持ち時間の中で永久に手に入らないかもしれない」という点で異様です。

そんなこんなで、今更ながらにAmazon Musicのサイトで確認したら、現時点(2022/11/5 9:50)では下記のように表示されていました。

「200万曲」と記載されていることから旧仕様の時の表示がそのまま残っているのかもしれませんが、曲数は別として「お気に入りの楽曲」を「楽しめる」という記述はウソです。ここで「200万曲」云々のところをクリックして次に進むと、下のような表示があります。

これはUnlimitedへの誘導ですが、文面に「もっと自由に」と記されていることから Unlimited でなくても「ある程度の自由」があるという意味になります。私は「聴きたい曲を直ちに聴けない」時点で「ほんの僅かな自由」さえ存在しないような心持ちになります。さらに言えば、どこかのサイトかSNSかで「クラシックを再生させると久石譲がかかるが久石譲はクラシックではない」と話題になっていましたが、「久石譲の特定の1曲」を取り出してクラシックの範疇に入れるかどうか判断するのは可能でも、「久石譲の楽曲すべて」という括り方をするなら数百年待たないと答が出ないでしょう。久石譲の楽曲に限らず、一般的な何となくの枠はあっても固定された定義がない音楽ジャンルをAmazonが規定している点で、ユーザーの「自由」は存在しません。もちろんAmazonによるジャンル分けへの違和感は旧仕様時代から存在したわけですが、ユーザーにはそれを回避する「自由」がありました。

「聴きたい曲を直ちに聴けないMusic Primeは不自由です。そこで追加料金を払ってUnlimitedにしませんか、、、、?」であれば正直で良いです。しかし上の画像ではAmazonはUnlimitedへの誘導として「もっと自由に」と言っています。どうせお金を払うなら Unlimited 以外に Spotify や YouTube Music Premium などによって「『もっと自由に』なれる自由」があります。音楽鑑賞における自由を求める人は「Amazonの枠内で自由を求める」(つまり「檻の中の自由を求める」)のではなく「音楽鑑賞そのものの自由であったり、音楽鑑賞するときの自分の自由さを求める」だろうから、「もっと自由に楽しみませんか?」というキャッチコピーは販促の側面からは自分で自分の首を絞めるものかもしれませんね。

カテゴリー:雑記
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