【雑記】心や感情の押しつけ、デザインにおける倫理
私の地元には著名な日本庭園があります。江戸時代に殿様が作ったもので、子供たちが幼かったころはときどきおにぎりとお茶を持って訪れて殿様気分を味わっていました。子供たちの成長に伴い行く機会は減りましたが、一方、今の家に引っ越してからは、家を出てこの庭園をぐるっと一回りして帰ると程よい歩行距離なので、愛犬とともに外苑をぐるっと巡ったりしていました(当然、普通の犬は園内に入れません)。一昨年、愛犬が死んでから足が遠ざかっていました。
この庭園では、毎年「幻想庭園」というイベントが開かれますが、去年まではイベントに行ったことはありませんでした。去年、世界に誇る名園が目と鼻の先にあるのに行かないのは損だと思って年間パスポートを買って、昨夏初めて「幻想庭園」なるものを実地見学しました。
私は人間が作り出した最高の美は直線と人工照明であると思っています。スポットライトでライトアップした建物や竹林が、風でわずかに波立つ池に映り込む姿は本当に美しいです。池を見渡すベンチに腰掛けて時間を忘れて楽しみました。
このようなありふれたライトアップだけでなく、プロジェクションマッピングも行われています。
プロジェクションマッピングの設営にあたった人には申し訳ないですが、これは悪趣味の極みです。プロジェクションマッピングは技術的には面白いものだと思いますが、「どこでどのように使うか」という入口を間違えたら、どんなに優れた技術であっても惨状をもたらして終わりです。
この庭園においては、普通のライトアップで止めておけばよいものを客寄せパンダとして使うためにプロジェクションマッピングを企画してしまったのかもしれませんが、美しい顔の上をゴキブリが動き回っているというか、刺身にネバーエンディングケチャップをかけているというか、見るも無惨なシーンができあがっています。素材に対する敬意が微感じられません。そのように感じるのは、私が見たいのは普段は見られない庭園の夜の姿であって、プロジェクションマッピングという技術ではないことがひとつの原因でしょう(幻想庭園に対する不快感に対しては、もう1つ原因があるので、後述します)。
デザインにおいて、かつては「やりたくてもでできない」ものが多かったですが、技術の進歩により「やりたければできる」ようになってきました。それは歓迎すべきことですが、一方で、「やりたいけれどやらない」という感覚を失ったかのようなデザインがどんどん増えています。
「(技術的に)できるけれどやらない」という姿勢の重要さは武器開発を例にあげれば、直ちに理解できると思います。庭園のプロジェクションマッピングは生命に対して危害を加えないから見過ごしてもよいのかもしれませんが、最新型ハリアーのリアウィンカーや「岡山桃太郎空港」とか「鳥取砂丘コナン空港」のように正確な情報を読み取るのに無駄な時間を要するようなデザインは人命に関わります。「できるからやってしまった」例は日常の小さな部分にもたくさんあります。信号機の近くにある信号の色に近い照明や看板、強すぎる防犯フラッシュライト、滑って持ていないほどツルツルの釉薬をかけた湯飲み、眠りを妨げるほどまぶしい電気機器のパイロットランプ、、、。
可能なことを試す態度は、ものづくりに関わる者に必然的に備わっています。それを否定してはいけません。一方「できるけれどやらない」態度は倫理観に関わるから、誰にでも備わっているとは言えないようです。
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私の学生時代には「デザイン倫理学」というような講義はありませんでした。デザインの現状を見るとたぶん今もないだろうと感じますが、上の事例はデザインする者が一定の倫理観を持ち、それを規範としてデザインすれば生じ得ない事態だと思います。倫理学を専門とする人には叱られるでしょうが、日常的に目にするレベルの倫理学は、素人目には、目を閉じ耳をふさいで頭の中だけで完結させる学問であったり、エシカル消費のように流行語として消費されているだけのように見えます(最先端の研究レベルではそのようなことはないでしょうが、現実的生活の中では見えにくいです)。倫理学者たちがもっともっと具体的事物との関係における倫理を大きな声で語ってくれたら、上記のような「たがが外れたデザイン」が減り、本当に住みやすい空間ができていくだろうと幻想します。
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話を「幻想庭園」に戻します。もう1つの不快感の原因は「幻想庭園」という押しつけがましいイベント名です。「安全安心」について書いた一文にも同様のことを書きましたが、心、感情、感覚を外から規定してはいけないということです。「幻想」は何かをきっかけとして心の中にわき上がる感覚のひとつであり、本来、一人一人異なるものです。ところが「幻想庭園」というイベント名には「これが幻想だ!」と決めつける傲慢さがあります。実際訪れてみて、私はありふれたシーンや想像できたシーンをとっても楽しみましたが、企画側がおそらく「見て見て〜、これが幻想だよ~」と力を入れたであろうプロジェクションマッピングは日常的に目にする機会がないという意味合いで<非日常的>ではあるけれど、<幻想>はどこにも見いだせませんでした。
たしかずっと前は「夜の庭園」というような言い方をしていたと思います。それであったら良かったのですが、「幻想庭園」という言い方は、別記事に書いた「安全安心」、スポーツ選手に多い「(I人々に)元気になってもらいたい」という発言などと同じで、心や感覚を外から規定しようとする一方的で傲慢な態度です。
文句ばっかり言っているようですが、不快なのは「幻想庭園」というネーミングと、素材を台無しにしているプロジェクションマッピングと意図不明なオブジェに仕掛けられた照明などです。これらの不快な要素が多少視野に入っても、夜の庭園は実に楽しく素晴らしいです。素材がよいから、夜でも昼でも雨でも風でも、本当に楽しく素晴らしい庭園です。
ということで「幻想庭園」はやめてもらいたいですが、「夜の庭園」は末永く続けてもらいたいと願います。ところが、今夏は始まったばかりなのにコロナウィルスの影響で休園になってしまいました。
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この庭園は有象無象のデザイナーが手を出すには恐れ多い相手です。石井幹子さんレベルであれば、素材に対する敬意を感じられる光環境デザインを施せたでしょう。石井幹子さんはかなりのご高齢だと思いますが、見てみたいです。