【雑記】「安全安心」「安心安全」という言葉遊びが流行っている
コロナウィルスの流行とオリンピック開催に関して、一部の人々が頻繁に「安心安全」とか「安全安心」と口にしています。そして、マスメディアも批判的/肯定的いずれであってもその言葉を垂れ流すだけで、耳障りの良いだけの言葉遊び「安全安心」に対する批判は見られません(あくまでも私が目にした範囲において)。
「安全」とは客観的で具体的な裏付けによって保証されるものですが、「安心」はその言葉自体が「心」という文字を含むことから明らかなように「心」の有り様を示します。
だから言葉のやりとりとしては、一方が「これは安全です」/「このようにして安全を図っています」のように言ったら、もう一方は「安心しました」/「それなら安心できます」/「それでも安心できません」と返すようなキャッチボールになるはずです。「安心安全」と一つの口から同時に出すのは、ピッチャーがバットを握って自分が投げた球を打つのと同じでそもそもがおかしな話だし、ホームランを打つならまだしも空振りばかり続けては滑稽でしかありません。
「安全安心」を口走る人は知性や教養に悖ると言うと言い過ぎでしょうが、言葉の意味を考えない人たち、あるいは言葉が軽い人たちでしょう。この言葉は相手への安心の押しつけ、言い換えれば、相手の心の有り様を外から規定しようとする非常に傲慢な言い方です。
そして今の流行中の「安全安心」は、自分たちが主張する「安全」が不確実であるために、相手に「安心」を強要して、ことを治めようとしているように見えます。
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ただし、言う側だけに責任があるとは思いません。
安全と安心がキャッチボールの関係を保つには、「安全だ」という言葉を受け取った側も杞憂の逸話のように漠然とした気分で捉えるのではなく、客観的に吟味した上で「安心できる」か「安心できない」かを判断しなければなりません。そのためには基礎知識や正確な情報が必須です。
SNSのおかげで、多くのマスメディアから流される情報が正しいとはかぎらない、むしろ、かなり批判(※)的な目をもって見なければならないことが明白になりました。結局は、客観的に判断を下すための正しい情報や知識を得る方法自体を見つけるための学習を続けることが本当に重要な時代に入っているわけで、日常の学習態度が左右する問題です。
(※)「批判」と「批難」をごっちゃにしている人がいます。違いが分からない人は、今一度辞書やAlexaで正しい意味を学びましょう。
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それ以前の話として、「安全」・「安心」のどちらも大変に重い言葉だから、私は、いま流行っているような軽率な使い方自体が馴染めません。