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【雑記】 新国立競技場に思う

新国立競技場は予算を見直す方向に向かうようだ。愚かしい話だと思う。

当初から、槇文彦を始め、疑義を呈していた建築家は多い。当初は、予算のことよりむしろ景観や環境の側面からの疑義であり、それは建築家の良心を感じる内容である。

新国立競技場に関する、このところの論調で気になるのは、審査員を務めた安藤忠雄には責任がないという見方である。細かい事情を知らないので、違和感を呈するだけに留めざるをえないが、槇文彦が持っているような「建築家としての良心」が欠如している建築家を審査員に選んだことが、現在生じている問題のひとつの要因だと思わざるをえない。

良心の欠如を示す例としては、ユニバーサルデザインやバリアフリーの観点からは、建ってはならない建物がいくつかある。たとえば水の教会。あのロケーションを与えられたら、気の利いた学生なら(そして、ユニバーサルデザインやバリアフリーに対する認識がまだ甘い状態であれば)、簡単にやってのける設計である。

(世の中の素人さんたち、一度、卒業設計の展覧会を見に行ってください。そうしたら、上記を分かってもらえると思います。)

とにかく、良くも悪くも、安藤忠雄が素人受けすることはよく分かる。

安藤忠雄が素人受けするのは、学生設計にありがちな、思いつきを短絡的に形態化したときにもたらされる明快さ、いかなるコンテクストからも外れているような珍奇さがあるからだ。つまり、「分かりやすい珍奇さ」、、、あらゆるジャンルにおいて、素人は芸の深みが分からないので、「良さ」ではなく、「分かりやすい珍奇さ」だけを見て評価しがちである。

ガウディの設計にしても、おそらく大半の人の興味の入り口は「分かりやすい珍奇さ」である。
重要なのは、入ったあとに深みを感じられるかどうかである。

安藤忠雄は西洋人にも評価が高いようだが、それは、多くの西洋人たちが、日本の生活、そしてそれがもたらす日本建築の微細さを理解していなので、安藤忠雄の設計を日本的なもの、あるいは禅問答的な回答の出し方だと思ってしまうことが理由だろう。あまりにも単純明快なことは、それが「潔さ」だと誤解されがちである。(そんな意味では、かつて西洋建築史を専攻していた私も、深い理解が不可能な事象に対して、辻褄合わせをし、言い訳をしようとしていたわけだ。あるとき、ふと虚しくなって、そっち方面の研究はやめた。)

 

話を戻すと、

 

「分かりやすい珍奇さ」しか分からない素人が、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「分かりやすい珍奇さ」が理由で知名度が高くなった建築家を審査員に選び、

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

「分かりやすい珍奇さ」が理由で話題を呼んできたような建築家の設計を選出する、

 

という、ありがちで分かりやすい流れになってしまったのだ。

 

これは設計コンペの常態であるとも言える。バブル期には全国津々浦々に珍奇な公共建築が建てられたので、多くの日本人は「分かりやすい珍奇さ体験」を共有できるが、今回はあらゆる面で建物のスケールがでかすぎるので大きな社会問題となってしまった。

ザハ・ハディドの形態を生み出す能力は、同業者として素晴らしいと感じる。
しかし、リアリティがない。空想的であることは否定しない。
空想的であっても現実的であっても、リアリティがなければ建築はなりたたない
(小説だって成り立たない)。
大幅な予算超過の問題が生じた原因のひとつは、建物としてのリアリティの欠如ではないか。

リアリティと言えば、住吉の長屋にも、ごく普通の生活という観点からはリアリティがない。
だから、あのような住宅が建ち、そこに住む人がいるという事実がショックなのである。
建物自体がショッキングなのではない。

ところで、サバ・ハディド案については、形態がスケールアウトしていること(簡単に言えば、でかすぎること)が問題だと思う。流布しているCGはスケール感が伝わりにくい印象だ。もっと小規模であればなかなかな形態だと思うが、小さくしすぎると自転車のヘルメットになってしまう。(自転車のヘルメットになるということは、力学的な合理性を持っているということ、それはとても優れた点。)

上記、普段から頭の中にあることを、深く考えもせず書きなぐったので、おかしい点、矛盾点などご容赦ください。

 

【追記:1】2015/7/16

上記は2015/7/16の安藤忠雄の記者会見の前に書きました。記者会見の新聞記事を見た感想を追記します(記者会見の映像は見ていません)。

  • やはり、この人はArchitectではない。強いて言うならArtist。ある建物を建てる出発点から終着点のすべてにわたって、物事を総合的に判断しなければならないのが Architect です。自分の言いたいことだけを言い、やりたいことだけをやっても許されるのは、Artistです。(Artistを貶めようとしているわけではありません。ArchitectとArtistは、社会的立場が全く異なることを指摘したいだけです。とんがれる力量がなければ、Artistではなく、たんなる我がまま坊主です。安藤忠雄は、形態づくりにおけるプロポーション感覚など、Artistとしてはけっこう優れていると私は思っています。)
  • やはり、この人は「デザイン」と「アート」が異なるものであることを知らない人である。そして、一般庶民と同じく「デザイン」=「見た目」という誤った解釈をしているのかもしれない。「アーティスト」は独り善がりでいいと思います。でも「デザイナー」は違います。つねに未知のユーザーに思いをはせながら創造行為を行わなければなりません。栄久庵憲司、柳宗理など優れたデザイナーはいつもユーザーを忘れなかったから、長く愛され続ける形態を生み出せたのだと思います。これは一品製産である建物では、なかなか難しく、形態として表しにくいことだと思います。”Form follows function.”なんていう、おめでたい標語が簡単に実現するものではありません。だからこそ、どのような姿勢で臨むかが問われます。また、本来なら、自身の社会的立場を利用して、「デザイン」という言葉の誤った使われ方を修正していけるはずですが、彼の言葉遣いからは、当のご本人が「デザイン」のなんたるかを知らないように思いました。もちろん、「みんなに分かりやすいように、『見た目』に対して『デザイン』という言葉を使ったという言い訳は可能です、彼ほどビッグでない人が、少人数に向かって言うときであれば。

 

【追記・2】2015/7/17

      追記・1のときは、下記をまだ読んでいなかったのだが、一人の建築士として恥ずかしい。

「日本の総力を挙げて、ゼネコンも思い切って、『日本の国のためだ』と言ってもらわないと。それが日本のゼネコンのプライドなんではないかなと思ったりするんですね。だから、ゼネコンの人たちも、もうからなくても、『日本の国のために、日本の誇りのために頑張る』と言っていただけたら、やっていただけたら、値段もうまくいくのではないかなと思いますが、ただ、ここ(1620億円)までは落ちてこないでしょうね」

          「日本の国のため」ではなく、 「このデザインを選んだ自分のため」でしょ!? (@_@)
          安藤忠雄が東大教授に就任すると聞いたとき、世も末だと思ったのだが、強く後押ししたのが私の大学院時代の指導教官だと聞いたときは本当に愕然とした。二人は若い頃から親しかったとは伺っていたが、そのことと安藤忠雄の東大就任は関係ないと思う。停滞する日本の建築に活を入れようというような目論見だったのだろうと思いたいが、最初からハズレくじだったと思う。評論家としては本当に優れた方であるが、設計というものへの理解は浅かったのかも知れないと思わざるをえなかった。

また今回の件で、いくつか文章を読んだが、内藤廣氏がザハ・ハディド案の擁護をしていたのには驚いた。内藤廣氏は私の大学の先輩でもあるが、20年ほど前の、内藤氏を送る車の中での十数分の会話で、すっかり彼のファンになってしまっていた。擁護の内容も、問題とされた形態や構造や予算より、選考プロセスを重視した観点からの擁護であるといえなくはないが、納得できる意見ではなかった。

【追記・3】2015/8/26

        上記まで書いたところで、心情的なブレーキがかかって下書きボックスに突っ込んでいたのだが、2015/8/26に下記の記事を読んで、公開することにした。この記事には、すこぶる納得した。

 

『東大教授の正統性をかけた安藤忠雄「ザハ案」と槇文彦「良識案」の闘い』
建築&住宅ジャーナリスト 細野透
2015年 8月25日
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/sj/15/150245/082400018/?P=1

追記2に書いた鈴木博之先生のこと、内藤廣氏のことも否定的な流れの中で出てくるので、心情的には反駁したくなるが、客観的に見れば細野透氏の解釈は正しいと思う。「論理破綻」だと言われても、やむをえない気がしないではない。

槇先生は、個人としてではなく建築家という職能をもつ人間を代表して物をおっしゃっているが、鈴木先生はどうだったのか。もし、建築史研究者を代表する立場からであれば、どのように判断なさっただろう、、、、出身大学でボロクソに言われた私の卒業設計を、「こっちでは賞を取れたかも知れない」と高く評価してくださったのは鈴木先生だったが、そのときの会話を思い出すと、応募案の中からは、ザハ・ハディド案をお選びになったろうと思う。客観的には論理破綻でも、先生らしいご判断だったのだと思う。

 

【追記・4】2015/9/2

細野透氏の、鈴木博之先生の論理破綻という解釈がなんとなく気にかかり続けています。細野氏が論理破綻とおっしゃるのは、現状の景観や環境を大きく変えてしまうザハハディド案を推したことが、自ら提唱したゲニウスロキという概念に矛盾しているという意味合いだと思いますが、鈴木博之先生は明治村の館長に就任なさったことですでにゲニウスロキに矛盾していた(細野氏の言葉をお借りすれば、論理破綻していた)のではないかと思います。

鈴木博之先生と直接この件でお話ししたことは、もちろんありません。たんに細野氏の記事の中で鈴木博之先生のお考えの一端を知っただけです。ザハハディド案を推した背後には、ノスタルジーに駆動される保存へのアンチテーゼがあると捉えたいと私は思います。あらゆる時代の個人個人のノスタルジーの集積がゲニウスロキだと、私自身は思います。ということは、新国立競技場の敷地は、人が手を入れ始めてからたかだか百数十年、ゲニウスロキが住み着けるほどの時間を経ていないので、ザハハディド案を推すことと、ゲニウスロキを提唱することは論理破綻ではないと言えます。

ときどき思い出しては考えてみようと思います。

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カテゴリー:雑記
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