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【雑記】 幼時の読書量と学力には相関性がないと思う、それと、国語の問題の解き方

書籍のタイトルには、売らん哉のタイトルが多いので、いくら警戒してもしすぎではないというのは、誰でも分かっている事実だと思う。たまにタイトルに踊らされてみることがあるが、ほとんどの場合、失敗だ。(怪しいと思ったときはオンライン書店で買ってはいけない。立ち読みは必須!)

今朝の新聞の広告欄を見たら、『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる! 』 という本が出ていた。

読んでいないのでタイトルだけからの判断だが、このタイトルが事実なら私は大学(世間的には一流と言われる大学)に進むことはできなかったろうと思う。本に浸ることがなかったことが、そのような大学に入る学力を与えてくれたと思っている。

幼時の読書を否定しているわけではありません。以下に記すように、私だって少しは本を読んでいました。

『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる! 』という書名を見たり読んだりした親が、遊んでいる我が子に、「もう遊ぶのはやめて本を読みなさい!」とか言うようになったら世も末だ、と思うのです。そして、本を読むなら、こういう眉唾タイトルではない本を読む姿を子供に見せてやった方がよいと思います。

少なくとも10才くらいまでの私には、読書習慣というものはなかった。

全然本を読まなかったわけではない、従兄弟のお下がりの子供用の童話集とか、児童向けの簡略版全集とか、『ひろすけ』の全集が我が家にあった。『ひろすけ』の「さとりのおばけ」と、子供向けの簡略版の『怪傑ゾロ』が大好きで、何度も繰り返し読んだ記憶がある。何度も繰り返し読んだとは言っても、多くても20~30回で、時間数で言えば、数年間のうちの十数時間にすぎないと思う。これでは多いとは言えない。

小学校に入ってからは学研の『科学』と『学習』を購読し始めたが、付録欲しさだったので、『学習』の方は漫画しか読んでいなかったような気がする。祖母の影響で歴史は好きだったので、歴史について書いてあったときはけっこう読んだかもしれない。父が応接間に飾っていた美術全集の絵やアメリカーナ(アメリカの百科事典)の挿図を見るのも好きだった。画家の名前と絵のタイトルはたくさん憶えられたし、アルファベットがずらっと並んでいる状態にも慣れたので、今から思うと良い経験だった。

とにかく、身の回りには面白いことが溢れていたので、本を読むなどという退屈なことには興味がなかった。

小学校3年のころから『子供の科学』の定期購読を始めた。『子供の科学』は発見と挑戦に溢れていて、毎月、届くのが楽しみだった。でも『子供の科学』だから、文学ではない。文字を読んではいるが、「読書」と言ってよいものかどうか分からない。そもそも10才を過ぎたころの話なので、『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる! 』ということが真実であれば、すでに手遅れである。

当時の私にとって、「読書」というのは読書感想文のために推薦されているような本を読むことだったが、そんな本にはほとんど興味が無かった。

そのせいか、国語の授業は大嫌いだった。「このとき、主人公はどう思ったでしょうか?」などという質問に対して、ほとんどの場合ズレた答えしか導けなかった。だから成績は平均点くらいで、自分は国語はダメなのだと思い込んでいた。(その反動で?、考えなくても点が取れる漢字は頑張ったので、今から思えば国語が嫌いで良かった。)

 *

高1のとき、友人が突然「分からんから、やる」と言って新潮文庫の安部公房の『壁』を私の目の前に突き出した。読んでみたが、たしかに分からない。このとき、分からないということは、描かれている世界に全く入っていけないことだと知った。それ以前に読んだ小説は、描かれている世界は何となく分かるものが多かったから、何だか悔しくて安部公房の著作を立て続けに読んだ。「読んだ」というより「文字を追いかけた」というべきかもしれない、、、だって、全く分からないのだから。『砂の女』だけ、描かれている世界の一部を想像することができた。著者の意図はともかく、プロメテウスの寓話と同じような状況だという印象を私は得たからである。

当時、描かれていることのおかしみ不可思議さのようなこととか、デンドロカカリヤなどの愉快なネーミングは楽しめたのだが、「なんだか変な世界だなぁ」という印象ばかりであった。少なくとも、当時の私には無縁の世界だったのだろう。その後、安部公房の著作をあらためて読もうと思ったことはないので、相変わらず私には無縁の世界なのだろうと思う。

高3のときだったと思うが、現国(=「現代国語」、現在の「現代文」)のテストで、安部公房の小説からの出題があった(教科書に安部公房の小説のどれかが出ていたのかもしれないが、記憶が曖昧)。テスト中に、「この問題はいつもと比べると簡単すぎる、何かおかしい、本当に大丈夫か、、」と自問していたような気がするが、とにかく書けることをすらすらと書いた。そしたら、この設問は満点だった。そして、他の問題もわずかな減点で、生まれて初めて国語で学年トップクラスの点を取れた。それ以降の現国は、軽々と高得点を取得し、某S予備校の全国模試の国語(現国・漢文・古文)では古文がほとんど0点であったにも関わらず、全国3位という成績を取った(ここまでの良い成績はこれが最初で最後)。因みに私は理系です。

国語の成績があがったということは、文章の読解が上達したと考えればよいのかもしれないが、私の場合は問題を解く姿勢が変化しただけだと思う。

現国の問題は、「なぜ出題者がこのような問題を作ったか」を分析すれば、高得点を望める。

かつての勤務先で、数学の入試問題を試作したことがある。私は数学の専門家ではないが、予備校でのアルバイトで受験数学に長期間関わっていたので、それなりの問題を作ることはできた。ところが、数学者が作ってきた問題には「コンセプト」があった。私が作った問題は能力を問うだけのものであったので、強いショックを受けた。どんな問題でも「出題者のコンセプト」を見いだせるかどうかは、きれいな解答を導けるかどうかに大きく影響すると思う。なお、「コンセプト」がない醜悪な問題が反乱していることも事実である。

私の場合、安部公房の世界を理解できなかったことが、問題にストレートに立ち向かわないという姿勢をもたらしてくれたのではないかと思うのだ。

問題文に素直に従って、出題された文章の著者の意図を読み取ろうとしたり、主人公の気持ちになったりする必要はないというのが、私が得た結論だ。問題には出題者の読解結果が現れているだけなので、著者自身の出題でないかぎり、著者の意図だとか、主人公の気持ちなどは問題とも正解ともは無関係だと思えばよい。現国のテストとは、文章の読解ではなく出題者の心理分析なのである。

たとえば、「下線部に対する筆者の考えを記せ」という問題だったとしたら、「下線部に対して筆者はどう考えていると問題作成者である私が捉えたかを記せ」と読み替えればいいわけです。

というわけで、学力全般とは言わないが、少なくとも国語の成績と読書量の相関性はない(ほとんどない)、と私は思う。

因みに私が高校時代に読んでいたのは、『ミュージックライフ』、『ロッキンf』、『FM fan』などの音楽雑誌、講談社のブルーバックス、”The Wizard of ID”や”Peanuts”だったので、高校時代の読書量も受験にはあまり関係ないと思いたい。

話を戻すと、『子供の科学』の記事のように原因と結果がはっきりしているものを読んで、ものごとの成り立ち方を知り、ものごとが始まってから終わるまでのプロセスを順序立てて考える習慣を身につけた方がよい、と私は思う。文学的なもので言えば、『桃太郎』、『三人のおまわりさん』、『怪傑ゾロ』、『イソップ童話』などのように、原因と結果の関係が明確であるもの。勧善懲悪ばかりでも困るが、原因と結果の関係が曖昧で、読者に考えさせようというような魂胆の本は小さな子供にはむしろ有害だと思う。

なぜなら、原因と結果の関係が明確であるものをたくさん経験してからでないと、ものごとの道筋を捉えることができるようにならないと思うので、原因と結果の関係が曖昧なものばかりを読んでいると、考える道筋を組み立てられない子供になるのではないかと危惧する。だから、読者に考えさせようという魂胆の本を、読書の入り口で読ませることは避けた方がよいと思う。

さらに言えば、読者に考えさせようという魂胆の本は、著者自体が何も分かっていない場合があるように感じる。また、どんな答であっても何か考えたのだから、それで善しという姿勢で評価するのは最悪。なぜなら、唯一の正解がないものごとは多い反面、明らかな間違いというものが存在するから。明らかな間違いに対しては、それが間違いであること、そして正しく捉えるための方向性を示すことが大切だ。だから「どんな答でも善し」はありえない。

一方で、ほとんどの場合、原因と結果が明確である科学の本も、読者の生活環境次第では上滑りの疑似体験で終わってしまうのでややこしい。要するに、子供には外からの働きかけによる読書は無用であり、親は寝るときの読み聞かせだけ頑張れば十分だとよいと思う。その場合の読み聞かせは、子供に読書習慣をつけさせることではなく、ものの見方を広げてやることや、文字嫌いにならないようにすることが目的だと思う。

*

現在高校生の長男は10才過ぎてから大の本好きになり、親が驚くほど多種多様な本を読んでいる。そして中学校で国語の成績がぐんと伸び、高校入学後も学年トップに近い位置にいるらしい。このように読書量と国語の成績の相関性を主張できる事例があるのも事実である。

ただし息子の場合も、10才までの読書量ではない。息子が10才ごろまでの読書は、科学雑誌や図鑑が中心で、読書感想文コンクール出品のための読書で読むような読書ではなかったし、何か工作したり描いたり、友だちと遊んだりしている時間がほとんどだったので、いわゆる読書というイメージでの読書時間はそれほど多くなかったと思う。

10才までに重要なのは、好奇心旺盛で、かつ、文字列に拒否反応を示さない子供に育てることで、読書好きに育てることではないと思う。

読書好きは結果であって、目的ではない。

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