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【過去のテキスト】 CADは建築の将来を拓く — ただし教育が正しければ! 1999年12月

[北海道東海大学(現・東海大学)で教えていたときに、電子計算機室の機関誌”Packet”の23号に執筆したもの。1999年12月発行。]840829-77DelphiAthena-640

CADを教えなければならないという思いと焦りはおそらくほとんどの建築系学科に共週しているだろう。しかしCAD教育に関する議論は、技術的側面と理論的側面がないまぜのまま進み、いっしか技術的測面だけが強調され、否定的な結論に至ることが多いようだ。CADが教育プログラムにうまく入っていかない根底にはCADへの大きな誤解があるのではないかと、CADの中に救世主を見る私は、やや被害妄想的に感じている。

CADにかぎらず建築教育における演習系科目の大半は、技術と理論の同時習得を目的としている。たとえば製図演習では、図面上の一本一本の線は何かしらの意味を担っていることを知るのが理論的な理解であり、その線を意味内容に応じて描き分けられるようになることが技術の習得である。やみくもにきれいな線を描けるたけとか、逆に線の意味が分かっていても描き分けられないのでは、製図を学んだとは言えない。

実務に携わる人から「図面が描けない人はCADを使えない」という言葉をしばしば聞く。このセンテンスは技術と理論の不可分の関係を示す好例であり、「図面が描けない→CADを使えない」という技術上の因果関係で捉えるぺきではない。035305053626「図面が描けないこと=図面の理論的側面を知らないこと」であり、だからこそ、道具を鉛筆からCADに代えてみても手も足も出ないのである。

教育の現場では、ここにおいて「手書きが先かCADが先か」と、ニワトリと卵のような議論が起きる場合がある。私はどちらでもかまわないと思う。卒業後に手で図面を描くチャンスが稀になった現在では、CADから始めても全く問題ないだろう—–ただし、軟育が正しけれぱ! またそれ以前の誤解とLて、よく「CADか手書きか」という二者択一論的な立脚点を見受けることがある。CADの登場は、設計プロセスで使う道具がひとつ増えたことに過ぎない。そして、スープを飲むのにナイフを使う人はいないように、あるいはスパゲッティを箸で食べてもいいように、目的と、達成されるぺき結末が分かっていれば、TPOに応じた道具を間違いなく選べるのだ—–ただし、教育が正しければ!

あるいはCADを使うことは楽をすることだという先入主もあるようだが、いかなる道具を使おうと産みの苦しみから逃れることはできない。しかし道具が内在する<速度>の差によって、苦しみから逃れるために必要な時問や次の苦しみの局面へと移行する時間は大きく変わるたろう—–ただし、敦育が正しければ!

さらにCADやコンピュータをバーチャルな世界と位置づけ、そこへの傾倒を危惧する声もあるが、パーチャルとリアルはどう見ても異なっており、それらをゴチャマゼにすることなどありえない—–ただし、敷育が正しければ! 411-int_u1

偶然見たTV番組で「コンピュータ=バーチャルリアリティのように言われているが、人エ物に囲まれたまち自体がすでにパーチャルリアリティであり脳化されたものである」というようなことを養老孟司氏が述ぺられていた。然り。ビデオゲーム世代が起こす社会問題も、社会や都市環境がバーチャルになっていることに起因するのであって、ちっぽけな機械に責任転嫁するのは可哀相だ。そして、設計図面とは3次元物体の2次元平面への写像という高度に抽象化された記号体系であり、極度にバーチャルなのである。だから読み間達いや解釈の相違といったコミュニケーションの障害がおきやすい。一方3次元CADは3次元物体や空間そのものを見せるから、図面よりも抽象度は低く(リアリティが高いのではない)、障害はおきにくい—–ただし、教育が正しければ!

もしパーチャルな世界に<在る〉ことに危険があるとすれば、それはその人の「想像カの欠如」に基づく。パーチャルとリアルを結びつける想像力や、違いを認知するための想像力である。CAD敦育だけでこれを補うのは無理たが、少なくともCADがアイディアを可視化する圧倒的な速さは、想像力育成に有効に働くだろう。また、CADは想像力を媒介として円滑なコミュニケーションを促進してくれるものでもある—–ただし、教育が正しければ!

私は、正しい!?建築教育とは何かと自問しながら、CΛDの授業を担当している。もちろん正しさとは時代や文化によーつて揺ぐものであるから、普遍的な正しさを求めようということではない。生活のあらゆる局面において「近代的な正しさ」を変容させるべき時期が来ていて、教育機関はその震源にならなければならないとの確固たる認識があるだけだ。私はまた明快な方法論を手中にはしていないが、授業内容や成果についてはホームページなどや紀要への投稿をご覧いただきたい。

参考:佐伯肺著「新・コンピュータと教育』(岩波新書)

 

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